戦争と日常

2022-06-14 (火)(令和4年壬寅)<旧暦 5 月 16 日>(友引 戊戌 二黒土星)満月 Håkan Hakon  第 24 週 第 26795 日

 

戦後に生まれた僕たちは、ひと世代前の戦争をしてしまった人たちに対して、「あの時代の人たちは間違ってゐた、そして現代の僕たちは民主的で正しい、僕らはあの時代の人たちとは違ふ」と思ひこんでしまひやすい。けれどももし、空想の翼を広げて、この身をあの時代に紛れ込ませてみると、そのような戦雲の空気の中に自分も染まってしまふであらうことが容易に想像できる。現代でもウクライナに戦争があって、「戦争はいけない」と思っても、結局は何もできない自分を見るだけである。ひと世代前の人たちと僕たちとは結局同質であるのだ。広島や長崎の原爆の話とか、東京大空襲の話とか、戦争の悲惨さを僕らは聞いて育ったけれども、戦時中の日本人は、日本がそのような状況に追ひ詰められるであらうとは、その日が来るまで、想像もできなかったのではあるまいか。真珠湾攻撃の後、日本は勝つだらうと信じた多くの日本人の生活の日常と、現代の僕たちの生活の日常とはあまり変はらないのではないかといふ気がする。日常の中に戦争が入り込むことは恐ろしいことである。そして人がその恐ろしさに気づくのは大抵コトが過ぎてからである。この地上でいま現に戦争が起きてゐるのに、しかも烽火三月に連なるといふのに、誰もそれを止めることができない。「負けても良いからともかく戦争をやめよう」とはなかなか言へないものなのか。武力で敗れても人がみな心を強く持ち続けることができるなら、民族の言葉が滅びることがないなら、さうさう侮られることはないと思ふのだが、そんな考へは甘いのだらうか。

今日は写真を撮りそこなった。翌日朝の写真