平家物語「法皇被流 5」

2022-06-13 (月)(令和4年壬寅)<旧暦 5 月 15 日>(先勝 丁酉 一白水星) Aina Aino  第 24 週 第 26794 日

 

まだ18歳でゐらっしゃる高倉天皇は御心を煩はせておいでである。ここしばらくのうちに、関白が流されたかと思へば臣下の多くが弑されてしまった。そこへもってきて今度はあらうことかお父君の後白河院までが鳥羽殿に幽閉されておしまひになったと聞いて、お食事も全くお取りにならず、ご病気と称して清涼殿内のご寝所から出ておいでにならない。

後白河院が鳥羽殿に幽閉されての後は、内裏では臨時の御神事が営まれた。高倉天皇が夜毎に清涼殿の石灰壇で、伊勢大神宮を御拝されたのである。これはひとえに法皇のご無事を御祈願するものであった。法皇の第一皇子の二条院は賢王であらせられたけれども、その先帝の近衛天皇の皇后(藤原多子)をお后に欲しいとご無理を言はれて、「天子に父母なし」とまで言ひ張って、いつも法皇の仰せにお従ひにならなかったからであらうか、そのお血筋を受けた子孫は続かなかった。つまり、二条院からお譲りを受けた六条院は安元2年(1176年)7月14日、数え13歳のお年で崩御となった。(平滋子(建春門院)を母とする高倉天皇が即位されたのは1168年。この時、六条天皇は数え5歳で退位させられ、その後は六条院として約8年を過ごされたことになる。)嘆かわしい御事ではある。

夕方になって雲が広がって、雲間から漏れる夕日。