仏教とキリスト教

2021-01-25 (月)(令和3年辛丑)<旧暦 12 月 13 日> (赤口 癸酉 一白水星) Paul Pål   第 4 週 第 26281 日

 

仏教でも浄土真宗などは考へ方がキリスト教に近いと云はれることがある。キリスト教と仏教の違ひは何かなと折に触れて思ふが、ひとつの見方は人間の欲望への対処の仕方にあるのではないかと思ふ。どんな宗教でも聖職者は禁欲の人であるから、欲望を肯定する宗教などはないのかもしれないが、それでも僧の妻帯を認めるかどうかなどでは禁欲の程度に違ひがある様にも思ふ。聖書には「求めよ、さらば与へられん」といふ言葉がある。これは神に祈りを求めなさいといふ意味であって、自分の欲望を肯定してよろしいといふ意味ではないと思ふが、どこかそれに近い前向きな誤解を心の中に持ってしまふ。これに対して仏教では自分から何かを求めなさいといふことはあまり聞かない気がする。むしろ、「欲を捨てて無私になりなさい。さうすれば望みもしなかったのに与へてもらふことがあるよ」と言ってゐる様な気がする。心の奥で結果として与へてもらふことを期待しながら無私になろうとするのは無私ではない。いづれにしても、この「私」を前に出すか、後ろに引っ込めるかに違ひがあると思ふ。それはもっと一般に、社会の中で人は自己主張をどこまでやって良いかにも繋がる。時代とともに日本人でも自己主張をする人が増えたと思ふが、基本的なところにある宗教的態度の違ひは意外と広い範囲に影響を及ぼすかもしれない。

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久しぶりに白い世界になった。