高齢者の気持ち

2020-11-02 (月)(令和2年庚子)<旧暦 9 月 17 日> (先勝 己酉 三碧木星) Tobias   第 45 週 第 26197 日

 

今日の地方紙 SödermanlandsNyheter の1面に出てゐた記事が少し気になった。高齢患者に対する医療側の対応に不備があって、そのせいでその人が亡くなったといふものであった。そのことがあったのは5ヶ月前のことである。98歳の女性であったが、病気になるまでは元気でお料理も自分でやり、頭もしっかりしてゐて、もっと生きたい思ひの強い人であったといふことである。その人は呼吸困難になり、covid-19 に感染したことが疑はれたのだが、検査することもなく、病院に運ばれることもなかった。高齢者住宅には看護師が居て、医師とは電話連絡して対応を決めるのだが、その人はその住宅に滞在したままで、死を待つだけのターミナルケアを受ける様に決定された。その場合、患者本人か親族と相談して決めるべきことであったのに、その連絡はなかったといふ。その5日後にcovid-19 に感染してないことがわかり、それから抗生物質を投与されたのだが命を救ふことはできなかった。その人の娘さんには、適正な治療がなされてゐたら救はれたのではないかといふ気持ちが残った。この記事を読んだ時、僕の心のうちでは、98歳までながらへたのであるならやむを得ないかなといふ気持ちも起きた。しかし、その考へは危い。人の生命力は人それぞれであるからだ。年齢で一様に区切りをつけることはできない。もう高齢者だからといって、その命を安く見積もってはいけないと思ふ。高齢者はよく自重ぎみに「もうこの歳だから仕方がないさ」とつぶやくことがある。しかし、周囲の人はそれをそのまま受け取ってはいけない気もした。「このまま生きてても希望も何もない」といふ言葉は「本当はもっと生きたい」といふ隠された希望の裏返しだと思ふ。

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我が家のカエデ。奥のイチョウは葉を落とした。