大乗自助

2020-10-12 (月)(令和2年庚子)<旧暦 8 月 26 日> (先負 戊子 六白金星) Valfrid Manfred   第 42 週 第 26176 日

 

中学生の時に、「天は自ら助くる者を助く」といふ言葉を英語で習った。この様な言葉に接した時に感ずる心は人それぞれではないかと思ふ。あまり感じない人もゐるだろうが、座右の銘の様にその言葉を大事にする人もあるかしれない。その様な人は社会に出て高い地位につくかもしれない。そしてもし実際にその通りになれば、その人はやはりあの言葉は正しかったと思ふかもしれない。人間は努力さへすれば報はれるものだ、報はれないとすればそれは本人の努力が足りないからだと思ふかもしれない。でも、どんな人も多かれ少なかれ、周囲の助けを受けてその様になるものだ。たったひとつの自分の例を元に他の場合を類推すると間違へると思ふ。仏教には小乗仏教大乗仏教がある。厳しい修行をしたものだけが高い境地に達することができて、一般の人はその高みに近づくことができないのが小乗仏教で、どんな人にも救はれる機会があるとするのが大乗仏教であるといふ風に僕は理解してゐる。大乗仏教の本質は「一切衆生悉有仏性」といふ言葉にあるのではないかと思ふ。自分だけの自助に走って、安全なところまで来てから、他の人も同じ様にすれば良いぢゃないかと思ふのは小乗自助だと思ふ。そこには他の人への尊敬の眼差しがない。それでは社会は良くならない。人は誰も自分が誰かに認められてゐることを知れば大きな力を発揮するものだ。どんな人にも自助の素質は生まれながらに備はってゐると信じて、それを促す様な自助のあり方は大乗自助と言って良いのではないかと思ふ。ただ、その実践には途方もなく大きな忍耐が要るものだ。僕は今、自分の実践してきたこととは全く程遠いことを書いてゐるのだが、心の持ち方としてはさうありたいものだと思って書いた。

f:id:sveski:20201013042544j:plain

森林浴まで徒歩1分はありがたい