自動翻訳

木 旧暦 4 月 24 日 先負 庚午 三碧木星 下弦 Robert Robin V23 25320 日目

自動翻訳の技術は年々歳々向上してゐる。Google translate を通じて、その恩恵を僕は随分受けてゐるし、日頃から頼りにもしてゐる。この傾向はこれからもますます強くなると思ふ。でも、どんなに自動翻訳技術が進んでも、その限界はもちろんあると思ふ。言葉はある部分までは記号であるが、ある部分から先は魂である。ビッグデータの集積によって記号の部分は上手に他の言語に置き換へられるが、魂の部分は置き換へられない。自動翻訳は、言語 A から言語 B へ平面的に置換するだけである。良い文章を読むと、あたかも自分の目で見てきた様にその情景が頭に浮かぶものだが、目や耳から入った文字情報は頭の中で雲の様に浮かぶ何かに変はる。翻訳をするといふことは、この雲の様に浮かんだ何かを別の言語で表現する作業であると思ふ。その時、言葉を選ぶ作業を通じて、この雲の様な何かがハッキリとした輪郭を持ったものに変化することがある。小学校の作文の時間に「わかったことや思ったことを自分の言葉で書きなさい」とよく言はれたのを思ひ出す。この様に翻訳はかなり立体的な構造を持つ置換作業ではないかと思ふ。平面的な置換では捉へられない世界があり、そこに自動翻訳が介入できない部分があり、そこに人間である喜びがあるのではないかとも思ふ。コピーとペーストだけで文章を書くのはその喜びを自ら放棄するものだ。将来にわたって自動翻訳が人間の営みを駆逐することはないと思ふ。さうと知った上で、自動翻訳を利用するのは誠に便利である。良き時代に生まれたことをありがたく思ふ。