平家物語「座主流4」

2020-10-05 (月)(令和2年庚子)<旧暦 8 月 19 日> (友引 辛巳 四緑木星) Bror   第 41 週 第 26169 日

 

同じ月の21日に、その配所は伊豆國と決められた。人々は色々と議論したのだが、西光法師父子の讒言によって結局その様になった。今日、ただちに都を追ひ出さなければならないと言って流罪の刑の執行人は白河の御坊に向かひ、前座主を追ひたてた。僧正は泣く泣く御坊を出て、粟田口のほとり、一切經の別所といふ区域にお入りになった。山門では、要するに我らの仇は西光法師父子に尽きると言って彼ら親子の名字を書いて、根本中堂におはします十二神将の内、金比羅大将の左の御足の下に踏ませ申し上げて、「十二神将・七千夜叉、時刻をめぐらさず西光父子の命を召し取ってください」と大声で叫んで呪詛した。聞くも恐ろしいことである。

23日になると、一切經の別所から配所へ出立となった。斯様に高位にあった大僧正ほどの人を検非違使の役人の先に蹴立てさせ、今日をかぎりに都を出でて、関の東へ赴かれる心のうちが推し測られてあはれなことであった。大津の打出の浜に着くと、文殊楼の軒端がしろじろとして見えたのだが、僧正はチラとご覧になっただけで、袖を顔に押し当てて、涙にむせんでゐらっしゃった。山門には、徳の高い僧は多いが、信西の子である澄憲法印、その時はまだ僧都であられたが、あまりに別れの名残を惜しまれて、粟津までお供してお送りした。しかしどこまでも送って行くわけにはいかないから、ここでお別れ申し上げますと言って帰って行かれた。僧正は澄憲の志の深いのに感激して、年来お心の中に秘せられてゐた一心三觀の血脉相承をお授けになった。この法は釈尊が教義を授け、波羅奈國の馬鳴比丘、南天竺の龍樹菩薩より順次相伝されてきたものであるが、今日の情けに授けられることになった。我が国が、いくら辺鄙のところにある粟粒の散った様な小さな國であると言っても、また、今が濁世末代の時代であると言っても、澄憲はこの教義を授かって、法衣の袂を絞りつつ、都へ帰り上られるお心のうちこそは尊いものである。

山門では大衆が会議をした。「最澄とともに入唐し、初代の天台座主を務めた義眞和尚からこれまで五十五代を数へるが、未だ流罪の例を聞かない。そのことを案じてみれば、延暦の頃、桓武天皇は帝都をたて、伝教大師最澄はこの山に登って天台の教へをひろめてから今まで、五つの障害があるとされる女人は跡たえて、三千の浄侶が住む様になった。嶺では一乗の教へ(法華経)を読んで長年になり、麓では七社の霊験が日に新たである。インドの霊山は王城の東北にあり、釈迦仏の住んだ幽地であるが、日本のこの叡山もまた帝都の鬼門に位置して、護國の霊地である。代々の賢王智臣はこのところを壇場としてきた。末代だからと言ってどうして當山に疵がついて良いことがあろうか。辛いことだ。」この様に喚き叫ぶが早いか、満山の大衆は一斉に東坂本へおり下った。

f:id:sveski:20201006040708j:plain

昼過ぎまで晴れてゐたが夕方は曇った。