平家物語「山門滅亡 堂衆合戦 2」

2021-05-21 (金)(令和3年辛丑)<旧暦 4 月 10 日> (先勝 己巳 九紫火星)小満 Konstantin Conny    第 20 週 第 26396 日

 

比叡山の騒ぎを鎮めるために、後白河法皇三井寺でのご授戒をお避けになった。けれどもこのことがきっかけとなってか、比叡山の中で、堂衆と学生の間に仲違ひがおこった。学生といふのは12年間山にこもって止観・真言の両業を修めた僧侶である。学侶とも呼ばれる。堂衆といふのは、その学生の従者であった童部が法師になったもの、もしくは雑用に使はれた法師たちのことである。金剛壽院の座主覚尋權僧正が比叡山のトップであった頃より、東塔、西塔、横川の三塔を順番に当番を決めて勤務するようになった。一夏90日間の当番であったので、夏衆(げしゅ)と呼ばれ、仏様にお花を飾ったりする役をしてゐた。そのような下級法師であった彼らは近年、行人(ぎょうにん)と言って、多くの僧侶(大衆)をことともせずに、喧嘩をしかけてはいつも勝ってゐた。このまま放置しては山門の滅亡を招き、朝家の御大事になりかねない。「堂衆たちは師主の命にそむいて合戦を企てるので、すぐにも誅罰を与へなければなりません」と、比叡山の大衆は公家に奏聞した。公家からは武家院宣といふ形で指示があって、それを平清盛が受けた。清盛は紀伊国の住人湯浅權守宗重をかしらに畿内の兵二千余騎を差し向けた。この二千の兵たちは比叡山の大衆と連合軍となって堂衆を攻撃した。堂衆は日頃は西塔北谷にある東陽坊にゐたが、近江国三ヶの庄といふ、今で言へば大津市下阪本のあたりに降りて、たくさんの兵を集め、また山に戻って、早尾坂(そういざか)に城郭を囲って応戦した。

f:id:sveski:20210522051246j:plain

今日も気持ちの良い散歩ができた