平家物語「座主流3」

2020-10-04 (日)(令和2年庚子)<旧暦 8 月 18 日> (先勝 庚辰 五黄土星) Frans Frank Den helige Mikaels dag Kanelbullens dag   第 40 週 第 26168 日

 

同じ月の18日に、太政大臣以下の公卿13人が参内して前座主の罪科についての会議があった。八條中納言長方卿、その時はまだ左大辨宰相で、末席に座ってゐたが、今回の罪科は厳しすぎると意見を述べた。「前座主の明雲大僧正は顕教密教の両方に通じ、行ひは清浄であり戒律を堅く守る人だ。法華経高倉天皇に授け、大乗の戒法を法皇にたもたせ奉った。これほどの立派な御経の師、御戒の師が重い罪を受けることになれば仏菩薩がご覧になってどう思ふでせうか。罪をご猶予なさるべきでせう」と、はばかることもなく意見を述べた。その座に連なった公卿たちは皆、その通りだと賛成したのだが、後白河院のお怒りがあまりに深いので、やはり遠流といふことに決められてしまった。太政入道もこのことについて一言申し上げようと院を訪ねたのだが、法皇はお風邪をめしてをられるといふことで、御目通りもかなはず不満げに退出するほかはなかった。僧を罪にするときのしきたりとして、政府が認めた僧の資格証を取り上げられ、俗人とされ、大納言大輔藤井松枝といふ俗名までつけられた。この明雲といふ人は村上天皇第七の皇子、具兵親王より六代の御末、久我大納言顯通卿の御子である。誠に並びなく徳の高い僧であり、天下第一の高僧でいらっしゃるので、君も臣も尊敬し、天王寺、六勝寺(法勝寺、尊勝寺、円勝寺、最勝寺、成勝寺、延勝寺)の別当も兼任しておられた。しかし、陰陽寮の長官安倍泰親などは、「それほど知識の高い僧に明雲といふ名前はをかしいのではないか。上に日月の光を並べて、その下に雲がある」と難癖をつけたりした。仁安元年(1166年)2月20日天台座主になられた。その年の3月15日には天台座主として登山して中堂の本尊を礼拝された。宝蔵を開くと、種々の重宝の中に、1辺が30センチほどの箱があった。白い布に包まれてゐる。一生涯不淫戒を犯さない座主がその箱を開けてご覧になると、きわだで染めた経文などを書くための料紙になにやら書かれた一巻があった。これは伝教大師が未来の座主の名字を前もって書いておかれたものである。自分の名のあるところまで見たら、それより奥は見ずに元の様に巻き返すことになってゐる。この明雲僧正もやはりその様になさったのでありませう。この様に尊いお方であっても、前世の宿業は免れません。あはれなことであります。

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