平家物語「内裏炎上1」

2020-09-15 (火)(令和2年庚子)<旧暦 7 月 28 日> (仏滅 辛酉 六白金星) Sigrid Siri   第 38 週 第 26149 日

 

平家物語を手で写す作業はなかなか進まないが、漸く巻第一を終へた。巻第一を写す作業だけで半年以上かかってしまった。急ぐ作業ではないから別に良いのだが、コロナでゆっくりできた割には遅かったかなと思ふ。巻第一の最後は「内裏炎上」であった。その部分をメモとして少し書き残す。

神輿騒ぎが済んだ後、比叡山の大衆の怒りは燃え上がる一方であるので、殿上では俄かに公卿による打ち合せが行はれることになった。打ち合せを命じられたのは蔵人左少弁兼光である。この時代の公卿達は打ち合せ一つするにも先例にならふやり方をする。崇徳天皇の治世、保安4年(1123年)7月に神輿入洛したことがあり、その時は天台座主にお命じになって、赤山の社(修学院のあたり)へお入れした。また、保延4年(1138)4月に神輿入洛した時には祇園別當といふ、今でいへば八坂神社の長官に当たる人にお命じになって、祇園社へお入れした。今回は保延の例に従ふべきであろうといふことになって、祇園別當権大僧都澄憲にお命じになって、夕方になってから、皇居の前に残された神輿を祇園の社へお入れした。神輿には矢が何本も刺さってゐたが、社の人がそれを抜いた。比叡山の大衆が日吉の神輿を皇居の入口まで担いで来たことは、鳥羽天皇の治世の永久(1113年)から今回の治承(1177年)までの間に6回あった。その都度武士を召して防いだけれども、神輿に矢を立てられたことは今回が初めてであった。「神様が怒れば必ず災害が世に満つといふ。恐ろしいこと恐ろしいこと」と人々は言ひあった。

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もう秋なのに蛇に会った。小さい頃に日本で見た青大将の様な大きな蛇はこちらでは見ない。