平家物語「御輿振1」

2020-09-02 (水)(令和2年庚子)<旧暦 7 月 15 日> (先負 戊申 一白水星)満月 Justus Justina   第 36 週 第 26136 日

 

ところで、山門の大衆は、国司師高と目代師經の断罪を朝廷に何度も訴へたのであるが、なかなか御裁許がおりないのであった。しびれを切らした山門の大衆は、安元3年(1177年)4月13日朝7時半頃、十禪師・客人・八王子の三社の神輿を担いて上洛した。京の都のあちこち、さがり松・きれ堤・賀茂の河原・糺・梅ただ・柳原・東北院のへんに、しら大衆・神人・宮仕・専當が大勢集まった。神輿は一条を西へ進んだ。それは天に輝いてまばゆいばかりであった。朝廷側では源平両家に命じて、四方の陣頭をかためさせた。平家では小松の内大臣の左大将重盛公が、三千余騎で大宮大路に面した陽明門・待賢門・郁芳門を固めた。弟宗盛・知盛・重衡、伯父頼盛・教盛・経盛は西南の陣を固めた。また、源氏では源三位頼政卿が渡邊のはぶく・さづくを大将にして、北の門、縫殿の陣を固めた。が、その勢は僅かに三百余騎で、広い範囲を守らなければならない。兵はまばらにみえた。そこの守りが薄いので、大衆は北の門、縫殿の陣から神輿を入れようとした。これは守りきれないと見た頼政は思ひがけない姿勢をとった。馬より降り、甲を脱いで、神輿を拝したのである。従ふ兵士たちも皆その様にした。そして衆徒の中へ使者をたてた。渡邊の唱(となふ)といふものがその使者となった。平家物語は登場する武者の姿を総天然色で描写する。唱のいでたちは次の様であった。「唱、その日はきちんの直垂に、小桜を黄に返いたる鎧きて、赤銅づくりの太刀をはき、白羽の矢おひ、しげどうの弓脇にはさみ、甲をばぬぎ、たかひもにかけ、、、」とこんな具合である。

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晴れ時々曇りの一日であった。