老いの手習ひ

2020-09-01 (火)(令和2年庚子)<旧暦 7 月 14 日> (友引 丁未 二黒土星) Samuel Sam   第 36 週 第 26135 日

 

僕の場合だけかもしれないが、人は何のために生きるのか、みたいなことは、仕事をしてゐる間は思はないものである。実際、仕事をしてゐた頃は、お給料をいただいて生きていくことが精一杯であった。何をおいてもまづ、まともな暮らしができることが大事なことであった。それはそれで、特に後悔はない。後悔がないどころか、仕事は決して嫌でなく、それなりに満足であったのだ。ただ、老年になり、仕事を離れて自由になってみると、勉強といふものが大事かなと思ふ様になった。それも世の先端技術を追ひかけて勉強する気はさらにない。勉強しても歯が立たないことはもうこの歳になれば十分よくわかる。やれAIがどこまで進んだの、量子コンピュータがどうしたのなどといふ話は、新聞などで結論さへ教へてもらへばよい。そんな本を読んで時間を過ごすよりは、むしろいかに良く生きるかについて学びたいと思ふ。しかし何を勉強するにつけても、基礎からやらなければならないので、僕の場合は高校生のレベルに戻って、初心者の心で手習ひばかりやってゐる。そんなことをさせてもらへる日々があることをありがたいと思ふばかりだ。

f:id:sveski:20200902042732j:plain

日本の黄金の稲穂を懐かしく思ふこともある。