日蓮の信念

2020-08-05 (水)(令和2年庚子)<旧暦 6 月 16 日> (先負 庚辰 二黒土星) Ulrik Alrik Traditionell kräftpremiär  第 32 週 第 26108 日

 

日蓮について思ふ時、「あのお坊さまはさういふお方であったのね」だけでは済まされない何かが残る。それは誰にとってもきっとさうであるからこそ、当時にあってもあの様に、龍の口の法難とか、佐渡流罪とか、種々の法難を受ける形になって現れたのだと思ふ。けれども、普通の人は自分の考へを述べる時に、「もしかしたら間違ってゐるのは自分の方かもしれないぞ」といふ思ひが生ずるものだ。それはそのまま迷ひとなるかもしれないが、そんな思ひがあるからこそ人は、己の間違ひに気づき、社会の中でバランスをとって生きることができる。日蓮の場合は法華経の教へに全幅の信頼をおいて、命がけで真理を守った。それは、日蓮には驚くべき学問の積み重ねがあり、それに裏打ちされたからこそ、その様なこともできたのだと思ふ。では、日蓮は説法の時、心に何の迷ひも無かったのだろうか。矢内原忠雄著「余の尊敬する人物」の中で「開目抄」について解説された部分がある。「然らばかく迫害苦難に遇ふ事實こそ、即ち日蓮が真の法華経の行者たる證拠ではないか。故に日蓮法華経の故にかく苦難に遇ふことを、自ら悦びとするのであるーーこの様に自己の使命につき、繰返して自ら疑ひ、又繰返しては確信する心理的過程が、痛々しきまで如實に告白せられてゐます。之はエレミアが、「われ日々に人の笑となり、人皆われを嘲りぬ」と述懐したのと共通の内的経験でありまして、日蓮の自信が傲慢と異なる所以はここにあります。この告白あるが故に、日蓮は私共の親しみ得る人間なのです。」と書かれてある。

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草を食む晩夏のうさぎ