怠惰な生活

2019-12-21 (土)(令和元年己亥)<旧暦 11 月 25 日> 大安 壬辰 二黒土星) Tomas  第 51 週 第 25880 日

 

会社生活をやめて自宅で過ごす生活を始めた時、密かに心に決めてゐたことがある。それは「怠惰にならない」といふ決意であった。会社からお給料といふものを頂かなくても、まるで勤め人の様に心構へを失はずにゐることが老いの淵に身が沈むのを防ぐひとつの方法ではないかと思ったのだ。それで日課を決めて初めのうちはそれなりに真面目にやってゐたのであるが、この頃は随分とネジが緩んだことを実感する。克己の心で欲望や誘惑から遠ざかりたいのだが、いくら抑へても欲望は後退しないものだ。3年とか5年とか、修行を積めば、いつかは晴れて卒業証書をもらふ時に、欲望が後退してくれるものなら良いのだが、実際はさうはならないのだ。少なくとも僕の場合はさうだ。悟りといふ心境がもしあるとすれば、それは欲望を抑へることのできる心境ではなくて、欲望そのものが消滅する心境に違ひないと僕は思ふ。しかし、人は欲望を我慢するからこそ偉いのであって、欲望が無いのならそれはえらくも何ともない。僕の場合、もし自分を抑へることを毎日繰り返すだけであるなら、ただもう疲れてしまふ。それでしまひには、朝は寝たいだけ寝る、といふことになる。それは後退には違ひないが、もともと「怠惰にならない」といふ決意そのものが僕の身の丈にあってないのだと思ふ。道元さんに聞けば「生死を明きらむることは命がけなんだよ」と優しく諭されるし、親鸞さんに訊ねれば「そんなにキバって生きることないのでは。もっとリラックスしなさい」と言はれてしまふ。日蓮さんの所へ行けば「法華経に生きるしかありませんね」となる。偉大な人にアドバイスを求めても、自分がしっかりしなければ道に迷ふばかりだ。摩訶不思議なるこの世に生を受けて思案を重ねた後の心に残るものは「本当はこれではいけないんだよね」といふ囁きのみである。僕は天才バカボンの父ちゃんが嫌ひではないのだが、「これでいいのだ」の連発には気をつけねばならないと思ってゐる。

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夜の町の風景