平家物語「祇王(その3)」

2020-05-19 (火)(令和2年庚子)<旧暦 4 月 27 日> (赤口 壬戌 八白土星) Maj Majken  第 21 週 第 26030 日

 

春夏も過ぎて初秋の候となった夜のこと、親子三人が洛外の庵で、かすかな灯火のもとに念仏してゐると、竹のあみ戸をほとほとと叩くものがあった。「昼だにも人もとひこぬ山里の柴の庵の内なれば夜ふけて誰かは尋ぬべき」。三人に緊張が走った。しづしづとあみ戸を開ければそこには仏御前が立ってゐた。清盛の館を抜けて尼の姿になってやって来たのである。「私もお仲間に入れてください」と。それまで祇王の心には、どうかすると仏御前を忌々しく思ふ気持ちもあったのだが、そんな思ひはこの瞬間に露ちりほども残らずに消えた。それからは「四人一所にこもりゐて、朝夕仏前に花香を供へ、余念無く願ひければ、遅速こそありけれ、四人の尼ども皆往生の素懐をとげけるとぞ聞えし。」彼女たちは毎日どんなものを食べて暮らしたのかと僕は気になってしまふ。現代ではパワハラやセクハラがあると、あるいはSNSで知らせ、あるいは新聞に載り、裁判に及ぶこともある。それはそれで現代的なひとつの方法とは思ふけれども、弱い復讐にとどまる。被害を受けた時、それを自分の内側の問題として受け止めて強い精神で生きることも、批判の態度として大事ではないかと思った。それは男でも、職種の違ひがあっても、どんな状況でも同じことと思ふ。僕は2018年10月25日に嵯峨野の祇王寺を初めて訪れた。お堂の中には祇王・祇女・とぢ・仏の他に清盛の像も置かれてゐたが、清盛の像は柱の陰に隠れる様に置かれてあったことに象徴的な意味を感じた。平家物語によれば、この四人の尊霊は後白河法皇の長講堂の過去帳にも入れられたとのことである。あはれなりし事どもなり。

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家のすぐ近くの木。今日花に気づいた。