藤原成親

2021-03-17 (水)(令和3年辛丑)<旧暦 2 月 5 日> (赤口 甲子 七赤金星) Gertrud  第 11 週 第 26332 日

 

コロナで家に閉じこもって、少しづつ平家物語を紙に写し取ると、京都といふ町に親しみが増す様な気がする。また、あの時代の歴史も、学校で習ったはずだがすっかり忘れてゐるので、改めて知りたい気がする。昨日書いたブログで藤原成親といふ人は平安時代の末期にどの様な来歴を経て出世したかが分かった。この人は平治の乱(1159年)では藤原信頼と手を組んで後白河院のお味方についた。保元の乱(1156年)の2年後、後白河天皇は位を子の二条天皇に譲り、上皇となられた。政治の実権は二条天皇ではなく後白河上皇にあったけれども、その実務はエリート官僚である信西が牛耳ってゐた。信西平清盛を重く用いた。この信西・清盛連合が藤原信頼には面白くなかった。打倒信西を目論む信頼は源氏とのつながりを深めていく。保元の乱では源氏と平氏は一緒に戦ったのであるが、次第に敵味方に分かれる様になってしまった。1159年12月、平清盛が熊野詣のために都を離れた間に平治の乱が勃発した。信西は逃げたが、土の中に埋まって隠れてゐたところを掘り起こされて殺されてしまふ。信頼は大喜びで早速朝廷を支配し始めた。後白河上皇二条天皇も幽閉されたままである。都に戻った清盛の働きで、後白河上皇仁和寺に、二条天皇は清盛の西八条の館におうつし申し上げた。それから藤原信頼を攻撃した。信頼の守りは義朝を中心とする源氏一門である。信頼自身は後白河上皇を頼って仁和寺に逃げこむがその前に捕まって六条河原で処刑された。義朝は戦ひに敗れて東国へ逃げ延びるが、尾張の国でかつての部下に裏切られて絶命する。その子頼朝は逃げる途中で一行にはぐれ、ひとりで歩いてゐたところを見つけられて都に送られた。が、池禅尼の嘆願で命を助けられ、伊豆に流される。この一連の事件の時、藤原成親は信頼の側についた。当然処刑されるべき人であったのだが、平重盛との姻戚関係があって特別に許され、復官した。その時はまだ中納言であったのが、昨日のブログで書いた様に、その後大きく昇進して、1175年には大納言になった。これだけの平家への恩があるのに、鹿ケ谷の陰謀に参画したものだから、清盛の怒りは大きかったのであると思ふ。死一等を再び重盛の嘆願によって減じられ、流罪に処せられた。今をときめく栄華の人が因果応報で滅びていく様子は平家物語に繰り返し出てくる。藤原成親もそのひとりであると思ふ。

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今日の夕月も美しかった