自分を知ること

2019-10-02 (水)(令和元年己亥)<旧暦 9 月 4 日>(赤口 壬申 七赤金星) Ludvig Love 第 40週 第 25801 日

 

65 歳で定年が来て仕事を引退して以来、僕の心には迷ひがあった。今はまだ元気で体も動くから、定年を過ぎたとはいへ、今のうちに少しでも働いて収入を得なければ、将来が経済的に心配ではないのかといふ心の囁きと、さうは言っても自由な時間も大事ではないか、本当に自由な身となって、果たして自分は何を求めて生まれて来たのかを見極めることも大事ではないかといふこととの間の葛藤であった。結果的に後者を選んでここまで来た訳であるが、間違ってはないと思ふ。将来、AI などの技術が発達して人間は働かなくても良い時代が到来した時、ヒマになった人たちはその時間をどんな風に過ごすことになるだろうか。これはかなり重要な質問である。大多数の人々にとって、そんな質問について考へてみることの方が、AI のプログラミングよりはるかに大事なのではないだろうか。定年後の僕の場合は、そんなヒマな生活を個人的に実験してゐるともいへる。実験を始めて5年経つが、この間、朝起きてやることがなくて無気力化するとか、暇を持て余すとか、生活が退屈であるとかはほとんど感じなかった。ただ時を「過ごす」だけの生活をかなり強く自分に禁じたつもりである。単なる遊びや娯楽や道楽となるべく距離を置かうとした。過去の自分を振り返れば、学校を出て社会に入ってからは、ともかくも自立して生活できるだけの収入を得ることを大きな目標として来た。高尚な哲学の話を聞いたとしてもまづ生活できるかどうかの方が先であった。在職中はあまりにもその様な価値観に傾倒したために、本も読まず、教養を身につけることもせずに、ただ働いて来た。定年後の僕はそんな生活への反省から、少しでも人並みの教養を身につけたいと思って生活してゐる次第である。現実に目をやれば、毎日やってゐることは教養を深めるには程遠く、ボケ防止のドリルをやる程度のことしかやってないのであるが、それでも気持ちの持ち方は大事であると思ふ。お金のことも大事だから踏ん切りがつかないのだが、人間の真の幸福は結局のところ「汝自身を知れ」と言ふ言葉の中にあると思ふ。自身を知るとは、大衆の勢ひに雷同するのではなくて、自分の内なる声に耳を傾けることであると思ふ。

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Stockholmsvägen に沿ふ木々の紅葉