幸福の時代

2019-10-03 (木)(令和元年己亥)<旧暦 9 月 5 日>(先勝 癸酉 六白金星) Evald Osvald 第 40週 第 25802 日

 

在職中の生きる目標は安定した収入を得ることにあったと書いたけれども、それが脅かされた時代もある。日本の会社をやめた時である。一個人が会社をやめるに至るまでには色々な理由があろうけれども、僕の場合、その理由を一言で言ひ尽くすならば、「無能此の身を愧づ」といふ感慨であった。僕はまだ管理職につくこともなく、そのことは幸ひであったが、このまま会社に居続けることは自分のためにも会社のためにも良くないと思った。たとえ一家三人が路頭に迷っても今は辞めるべき時であると強く思った。するとその時に、それまでに FAXでやりとりしてゐたスウェーデンの会社から連絡があって、「こちらに来て私たちと一緒に仕事をしないか」と誘はれた。それはもう恐ろしいほどの偶然であった。仕事の内容は良くわかってゐたから、応じて、一家三人で海を渡った。一縷の望みを繋いで新しい職場を得たけれども、自分の生き方として歴史上の人物にモデルを求めるなら、大政奉還なった後の最後の将軍慶喜の生き方を、僕はひたすら手本とした。客観的に見れば負け犬であったかもしれないのだが、心のうちにはなぜか負け犬といふ意識はなかった。斯様な次第であったから、単に職場が嫌になったからとか、より高い条件を求めて転職したのでは断じてない。実際、最初の給与は本当にわずかで、数年間は爪に火をともす様な暮らしぶりであった。健康で文化的な最低限度の生活とはこんなものかと感じたものだった。これに比べればこれまでの日本での生活は、意識したことはなかったが、贅沢であったのだと知った。不義理かもしれないが交友も絶った。それでも僕に不平はなかった。人を正社員として迎へることが会社としてどんなに大変なことであるかを知ってゐたから、そのことだけで感謝した。自分の働きに会社が価値を認めてくれれば、そのうちに給与も増えるだろうと思ひつつも、先の見えぬことは不安な毎日であった。「君はもう要らないよ」と言はれるかも知れない不安に怯える日もあった。娘はちょうど小学校1年生になるところであった。迷ふことなくすぐ近くの地元の小学校に通った。先生は外国人にも優しかったらしい。もし数年で日本に帰ることになれば、日本語ができないと困るだろうと思って、僕は毎日仕事から帰ると娘に日本語で勉強を教へた。ストックホルムまで行けば毎土曜日に日本人補習校があるのだが、とてもそこへ通はせるだけの家計の余裕はなかった。小学校の高学年になってからやっとそこへ通はせることができる様になった。親の危機意識は幼児にも敏感に伝はって、来る日も来る日も娘は勉強に良くついて来た。振り返れば、この頃が最もお金のない時代であった。兼ねてから僕は、最低限度の収入でやりくりできる人間でなければならないといふ思ひを心の何処かに持ち続けてゐたのだが、図らずもそれが実践できた時代でもあった。貧しい時代ではあったけれども、親子で一緒に勉強できたこの時代は、実は僕の人生で最も幸福な時代であったかもしれない。人間の幸福はお金では測れないことは真実だと思ふ。

 

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それぞれの木々はマイペースで紅葉するだけだが、全体として配色のバランスが良い。人の世もまた、、、。