文明社会は敷居が高い

2018-10-02 (火)(平成 30 年戊戌)<旧暦 8 月 23 日>(赤口 丁卯 三碧木星)下弦 Ludvig Love 第40週 第 25438 日

 

同居人の iPhone の電池がダメになったので、ストックホルムへ行った日に、あるお店へ行って電池を交換してもらった時のこと。そのお店はショッピングモールの中にあって、カウンターの中で男の人がひとりで小さな電子機器を修理してゐた。客の応対と機械修理を一人でやってる様で、忙しさうであった。順番待ちをする僕らの前にかなり年配の東洋人風のおじさんがゐた。店員はおじさんがどんな用事でここに来たのかを聞くのだが、おじさんはスウェーデン語が通じない。英語でやるのだが、モゴモゴと発音も不明瞭で、言ってることが要領を得ない。店員は「どんな用だ」とイライラしてきた。後ろから僕が声をかけて話を聞いてみれば、おじさんは中国から来たのだと言ふ。何故かスマホを2台持ってゐる。1台は古いがもう1台は新品でまだ箱に入ってゐる。おじさんは「古い方は修理することも不能なほど状態が悪いとここで言はれたのだ」と言ったり、「私は電話でお話だけできればそれで良いので、それ以上の機能は要らないのだ」とか話すのだが、僕にも状況がつかめない。買ったスマホが上等すぎるから返品したいのだらうか?お店が違ふのではないか?僕がおじさんと話す間に、同居人はお店の人と話ができて、「iPhone の電池交換ならこの先にあるお店でやってくれるかも」と言はれたらしい。僕はネットで調べてこの店に来たので、この店でできない筈はないのだが、ぶっきらぼうに「よそへ行ってくれ」と言はれればさうするかと思った。おじさんとの話は長くなりさうであったので、そこで話を打ち切って、後は店員に対応を任せた。悪かったけど僕も急いでゐたのである。後から思へば、あのおじさんは、新しいスマホに SIM カードを入れて、電話会社と契約しなければ電話が使へる様にならないことも知らないのではないかと思った。それにしてもなぜスマホを2台持ってゐたのだらう。古い方から SIM カードを抜いて新しいスマホに入れて見たのだらうか。いやいや、二つのスマホは SIM カードサイズの互換性がない機種である様にも見えた。

現代社会で文明の利器を自由に駆使するためには、一般市民にはハードルが高い場合がある。僕もそのことでいつも密かに悩んでゐる。どこへ行って誰に何を聞けば良いか分からない、そんな人も結構多いのではないか。それでも日本ではお店の人は客の一人一人に丁寧に対応してくれる。この丁寧さが顧客にはありがたいのだが、その分、企業側の仕事の能率は落ちてしまふ。GAFA を見よ。専用の顧客サービスなど持たない。客の質問などハナから受け付けない。困った客に客同士でネット上で議論させて問題解決させる。その土俵まで上がってこれないものどもは無視する。実に荒っぽい話だ。GAFA のうちApple はハードを持つだけあってサポート体制がある。それだけ、営業的には苦しい面を必然的に持つと思ふ。日本で GAFA の様な会社が育たなかったのは、「お客様は神様です」のお国柄であったからだ。それでも長い目で見れば、その様な社会の方が細く長く生き延びる可能性があり、悪いことではないと僕は思ってゐる。

 

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低い雲が立ち込める一日であったが、束の間の晴れ間あり。雲の形を見るのも楽し。