先生はタブレット

土 旧暦 閏5月1日 大安 壬午 九紫火星 新月 Johannes Döparens dag Midsommardagen V25 24973 日目

高校1年生の時は、現代国語も古文も漢文も一人の先生に教へていただいた。高校2年になると、それぞれ別の先生であった様な記憶がある。数学もさうだ。高2の教科書は数学IIB 1 冊であった筈だから、なぜ 2, 3 人の先生に見ていただいたのかはしっかり覚えてゐない。演習みたいな時間があったのかもしれない。学期ごとに違ったのかもしれない。覚えてゐるのは、その中の一人の先生に褒められたことだ。それも優秀で褒められたのでは無論ない。「君の答へは全部間違へてるけど、文字が読みやすくて、どこでどう間違へたかがよく分かる様に書けてゐる。」と言って褒められたのだ。それはまるで、答はあってるが、ぐちゃぐちゃに書かれた答案より優れてゐるとでも言はれてゐる様な感じの褒められ方であった。今の僕なら、「それぢゃそのことに免じて 10 点でもくださいよ」と言へるのだが、その当時の僕は「はあ」と言ふばかりであった。でも、褒められたことで前向きの気持ちになれたことは確かだ。人は生きる限り過つ。過ちを恐れて何もしないより、何かやって過つ方が良い。それもどこで間違へたかわかりやすく記録されてゐたらもっと良い。後年になって、そんな風に思ふ様になったことのきっかけは、あの数学の先生の褒めてくれ方にあったかもしれない。今日のニュース(日経夕刊)を見ると、塾に先生が居なくて、講師の代役をタブレットが務めることが書かれてゐた。タブレットが先生なら、あの様なことを教はることもないだらうなと思った。