時々思ひ返す言葉

2018-09-18 (火)(平成 30 年戊戌)<旧暦 8 月 9 日>(仏滅 癸丑 八白土星) Orvar 第38週 第 25424 日

 

初めからキリスト教に帰依するつもりもないのに、外側からキリスト教について知らうとする態度は、内側から見れば不愉快なものかもしれない。また、外側に立つ限り真の理解は得られないものかもしれない。だが、宗教といふものは一旦帰依すればそこから抜けるのは容易ではない。さらに、いろいろな宗教について学ぶことができるのは外側に身を置いてこそとも言へる。世の中には無宗教の人も多いし、宗教を必要としない人もゐる。順風満帆の人生を謳歌し、「エンジン全開、絶好調!」みたいな人のところに神様は降りて行かれないのだと思ふ。僕はスウェーデンに来てからの最初の数年間は結構悩むことが多かった。そのこともあってか、当時は割と聖書を読んだ。聖書の言葉はカレンダーや本の栞に印刷される場合もある。いろいろな人にいろいろな状況で働きかけるものであると思ふが、僕にとって一番力を得た言葉をひとつ選べば、「あなたのしようとすることを主にゆだねよ」といふ言葉である。夏目漱石の晩年の「則天去私」の言葉と相通ずるものがあるかもしれない。僕は「諸行無常」と「因果応報」を二つの柱にして行きてゐるつもりである。人生がうまく行ってゐる時には「若い時に苦労したから、今楽であるのはその因果だ」と思ってしまひがちだが、うまくいかない時にその原因を己に見出すのは辛いものがある。「あなたのしようとすることを主にゆだねよ」この言葉は三つ目の柱かもしれない。時々、思ひ返す言葉である。

 

f:id:sveski:20180919035222j:plain

秋の日に草を食む牛たち