独学

2018-09-17 (月)(平成 30 年戊戌)<旧暦 8 月 8 日>(先負 壬子 九紫火星)上弦 敬老の日 🇯🇵 Hildegard Magnhild 第38週 第 25423 日

 

学校に通ったり、先生についたりしないで、自分の力だけで学ぶことを独学といふ(「角川必携国語辞典」より)。昔の偉い人たちは皆、貧しい中から独学で学問に励んだ様に思はれて、独学で学ぶ人に僕は強い憧れを抱く。だが、その一方で、仁和寺のある法師のエピソードにある様に「少しのことにも先達はあらまほしきことなり」といふ考へも尤もである。合理的に考へれば、しっかりとした先生について体系だてて勉強することが望ましいことは言ふまでもない。だがまたそのすぐ後から、勉強とは所詮孤独な営みではないかとの思ひも頭をもたげる。孤独なままに家に閉じこもって孤独な営みを繰り返せば、よほど意志の強い人でない限り、所定のレベルに達することは難しい。だから学習塾といふものがあるのかもしれない。僕は老後の生活を家でブラブラと過ごすのであるが、この歳で独学を志してもなかなか前に進まない。先日、自動車の修理を待つ間、図書館で数時間過ごしたが、とても新鮮な気がした。同じ勉強をするにも家の外に出ることはそれだけで前進へのインパクトがある様な気もした。家といふ空間は基本的にくつろいで緊張をほぐす場所であるからだ。この点、テレワークなどの新しい働き方の一環として、家で仕事をすることになる人たちは気をつけた方が良い。職住接近は歓迎だが、職住合一はよくない。「どこでも勉強できます、どこでも仕事ができます」といふ謳ひ文句は要注意である。時間を決めて外に出て学ぶ。意志の弱い僕にはそれが勉強のひとつの形である気がする。それにしても、日本では子供を塾に通はせるにお金がかかると聞く。お金をかけて教育を受けなければ相応の収入のある職業につけないものであるらしい。本当かしら?それが親から子、子から孫へと繰り返されて次第に貧富の差が広がり、今や大きな社会問題になってゐる。お金をかけて教育を受けなければ一人前になれない社会は不健全であり、民主的でもない。それほどお金をかけなくてもできる、新しい時代の独学の方法があっても良い様な気がする。

 

f:id:sveski:20180918023103j:plain

Nyköping 川の少し上流