平家物語の中の仏教

2022-01-20 (木)(令和4年壬寅)<旧暦 12 月 18 日>(大安 癸酉 一白水星)大寒 Fabian Sebastian 第 3 週 第 26650 日

 

平家物語を読むと、随所に仏の教へがちらばめられてゐる。琵琶法師の語る平家物語は、他に楽しみを持たない人々にとって大きなエンターテインメントであったろうと思ふが、そんな息抜きの中にも仏教の考へ方が盛り込まれて、啓蒙的な機能をも果たしたのだと思ふ。この物語の作られた当時は、比叡山で学んだ学僧たちの中から、法然親鸞、一遍、栄西道元日蓮などの巨人が輩出し、新しい宗教として念佛宗、禅宗法華宗などが生まれてくる時代であった。それだけに、そのような宗教上の新傾向が生まれる時代の雰囲気が平家物語には表れてゐると思ふ。物語に現れる仏教はやや古い仏教で、具体的には真言宗天台宗がメインであると思ふ。栄枯盛衰、諸行無常、因果応報などが語られるが、非合理的な「まじない」を真面目に取り上げたりもする。現代でも日本人は、神社仏閣に家内安全、商売繁盛などを祈願する傾向があるが、これは平家物語の底流にある、非合理なものの中に正しいことがあるといふ考へを引き摺ってゐるのではないかと思ふ。因果応報については、勧善懲悪とセットになって、「悪いことをするとバチがあたるぞ」みたいな形になってしまって、これが現代の同調圧力や自衛警察が生まれる背景と無縁では無いような気がする。平家物語では、例へば俊寛僧都の一族が滅ぼされて、その恨みが平家の今後の安泰を脅かす原因になってゐるといふ説明がある。しかし、「因果応報」といふ考へは他人を攻撃したり脅迫したりするために用いられてはならないのであって、その意味では平家物語の語り口には賛成できない一面を僕は感じる。「因果応報」それは修行に励むものだけに御仏が示してくださる慈悲なのであって、むやみとどんな場面でも使って良いものでは無いような気がするのだ。

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今日は大寒。昨日は緑であったシャクナゲの葉が今日は白く化粧して寒さうであった。