因果応報

火 旧暦 8月13日 友引 戊戌 五黄土星 Sture V37 24678 日目

「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」と小さい頃良く言はれた。だが、人生はそんなに単純なものでもないだろうと反発する気持ちが若い頃の僕にはあった。今の年齢になってみると、人生はやはり因果応報で決まるものだと思ふ様になった。もし若い時に自分が何かを間違へたのであれば、その報ひは年を取ってから受けることになることを覚悟せねばならぬ。自分が蒔いた種であれば自分で受けるしかない。しかし、この因果応報といふ言葉は、自分に言ひ聞かせる言葉ではあっても、決して他人に向けて発してはいけない言葉だとも思ふ。広島や長崎で被爆した人に向かって、「因果応報でそんな目にあったんですよ」と説くことはできない。たまたまその時その場に居あはせたといふことだけで無差別大量殺人に巻き込まれたのだ。けれども、そこで多くの人が苦しまれた事実は必ず長い人間の歴史の中で何かの結果を生むに違ひないことを僕は信じるから、その意味ではやはり因果応報は生きてゐると思ふ。もし一個の生命の、生物的な意味での死が終焉であるなら話は別だが、生命はDNAを介してどこまでも生きると僕は信じる。旧約聖書ヨブ記のオリジナルは本来ハッピーエンドで終はらない、神の愛の届かない物語として語られたと聞いたことがある。僕らの目からはどんなに因果応報の成り立たない不条理の世界である様に見えても、「それでも君は因果応報を信じることができるか」といふ神様からの、誠に厳しい問ひかけを、ヨブ記は問ふてゐるのである。キリスト教ではイエスの贖罪によって信じるものは簡単に救はれてしまふが、この問ひかけを自覚せずにゐてはイエスのありがたさも分からないかもしれない。うんと長い目で見ればどんな事象にも必ず原因はある。道元の言葉にも、「大凡因果の道理歴然として私なし」とある。だから、科学がどんなに発達しても、僕は内心で、因果応報を真理として受け入れたいと思ってゐる。