日本の階級社会

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AERA 2 月 26 日号を電子版で見た。日本では「階級社会」化が始まってゐると書かれてゐた。かつて信じられてゐた「一億総中流」はもはや幻想で、10 年以上前に「格差社会」といふ言葉もできたが、その格差はさらに広がって、今や状況は「階級社会」と呼ぶべき段階に来たといふことである。労働者階級は「正規雇用」と「非正規雇用」に二分され、これが元で「アンダークラス」と呼ばれる新たな階級が登場したのだといふ(「新・日本の階級社会」橋本健二早稲田大学教授著、<講談社現代新書> に詳しく書かれてあるらしい)。アンダークラスは収入も低く、この階層が増えることは社会が悪くなることだ。なぜ、その様に変はってしまったのかと思ふ。その流れは、世界的にポピュリズムが台頭して来た動きと底流で繋がってゐる気もする。古代から現代に至る日本の歴史の中で、一般の人々はどの様に生きてきたか僕はよく知らないけれども、もしかすると、いつの時代にも実質的な階級の差があったのではないかと思ふ。例外的に戦後の一時期だけに、平和で人がみな平等に生きられる幸運な時代があった。そちらの方がむしろ例外なのであって、今は水が低きに流れる様に、自然の流れに戻る動きを見せてゐるのかもしれない。だが、僕らは非力でもその流れに竿を差さなければならないと思ふ。今、憲法改正が話題にされるのは主に第9条を巡ってであるけれども、その第25条には、すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有すると書かれてゐる。大事な条文だ。この憲法のこの部分を守ることも、それに守られて例外的な平和な時代を享受してきた僕たちの世代の義務ではないかと思ふ。アンダークラスの人たちは何も他の人より劣ってゐるわけではない。もしそこで偏見を持って彼らに接すれば排他主義に陥ってしまふ。ややもすると自分と気の合ふ仲間たちだけで閉じてしまひがちな僕は、まづそのことに敏感でありたいと思ふ。