憲法って何だろう

2020-05-03 (日)(令和2年庚子)<旧暦 4 月 11 日> (友引 丙午 一白水星)憲法記念日 John Jane   第 18 週 第 26014 日

 

江戸時代にも裁判はあったが、一般の人々のための法律はなかったのだと思ふ。法律が整備されてなくても人々は社会の中で平和に生きていくことができた時代であった。あの時代には多くの人たちが共通の価値観に支へられて生きてゐたのだと思ふ。聖徳太子の時代から日本に十七条の憲法はあったが、それは近代的な法の体系ではなかった。明治になって日本が近代国家として出発して間もなく、大日本帝国憲法が発布された(1889年)。それは西欧列強に対して、我々も国家らしくちゃんと憲法を持ってますよといふ、他国から馬鹿にされないための意味合ひがあった様に思はれてならない。それまではそんなもの無くてもやって来れたのだから。僕は法律を軽んずる気持ちは毛頭ない。法律に身を守ってもらふことの恩典を深く感謝してゐる。けれども良いことと悪いこととの間の線引きを法律だけに頼る訳にもいかないのだ。もしも、そんな線引きを法律だけに委ねたとしたら、「法律に触れなければ何をやっても良いのですね」といふことになってしまふ。法律がなくても平和にやっていける社会がもしあったとしたら、それは高度な文明社会だと思ふ。

ところで、法律の親玉の様な憲法は、もちろん守らなければならないのだが、あまりにも理想を掲げるために、そのままでは遵守が難しいこともある。しかし、守ることができないならそんなものは取り下げろといふ訳にはいかない。現実が乖離してゐることに胸を痛めながらも理想を掲げ続けることは非常に大事であると思ふ。そんな理想を掲げる役割を憲法が担っても良いのではないか。かつての十七条の憲法も「和を以て貴しとなす」と今の平和憲法と同じ理想を述べてゐる。アメリカの歴代の大統領が就任宣誓をする時には「神よ照覧あれ」と言って聖書の上に手を置くではないか。その聖書の中には例へば「汝の敵を愛せよ」と書いてあるのだが、それにも関はらず、現実はそれとは全く反対に戦争ばかりして来た。それなら聖書の上に手を置くことなどやめれば良いかといへば、やはりさうもいかないのだ。日本国憲法が理想の精神の記述を放擲したなら、日本はどこにその理想の拠り所を求めれば良いのか。その様な拠り所をなくした日本がどんな風になっていくかはあまり想像したくない。

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時々雨。水溜りが木々を映してゐた。