ブッダ 最期のことば

日 旧暦 2月24日 先勝 戊午 七赤金星 下弦 Liv 2 i påsktiden V15 24169日目

NHK Eテレに「100分de名著」といふ番組がある。名著のエッセンスを紹介して、それを機会に視聴者に読書を薦める番組である。普段あまり書物を読まないことで劣等感のある僕は、たまに機会があるとこの番組を見る。今月は「ブッダ 最期のことば」をやってゐて、講師は佐々木閑先生である。本屋でテキストを買って読んでみたが、これまでに知ってゐた仏教の常識を完璧に覆された。ブッダの始めたもともとの「釈迦の仏教」は厳しい修行の仏教であり、僕らが知ってゐる大乗仏教、毎日仏像に向かってお経を読んだりする仏教とは全く違ってゐると言ふことを知った。かねてから僕は仏教には阿弥陀如来薬師如来大日如来観音菩薩文殊菩薩普賢菩薩日光菩薩月光菩薩地蔵菩薩など、仏たちがたくさんおはしまして、どういふ関係であるのかよくわからなかったが、あの仏たちは大乗仏教になって初めて登場してきたのであると言ふ。つまり、ブッダのもともとの教への中には如来や菩薩などの仏たちは無いのである。「釈迦の仏教」と大乗仏教とどちらが正しいかと言ふ問題ではないと思ふが、仏教史の大きな流れを俯瞰した上で自分の救ひを求める拠り所をどこに置くか、それを確かめる作業は大事な気がする。その意味では大いに参考になった番組であるが、一つ、僕にはわからないことがある。それは「釈迦の仏教」でブッダは因果応報をどの様に位置付けたかと言ふ疑問である。仏教を貫く底流にはふたつの大原則があるといつからか僕は思って来た。その一方は「諸行無常」であり、もう一方は「因果応報」である。このうち、「諸行無常」は「釈迦の仏教」にはっきりと出て来ることが分かったが、「因果応報」は見当たらない。仏法僧の法の中に因果応報の理は含まれるだらうか。もし、「因果応報」の原則は大乗仏教になってから唱えられ始めた原則であるなら、僕の信仰は「釈迦の仏教」とは相容れないことになってしまふ。それが僕には大変気になるので、そのことをこれから注意してみようと思ってゐる。