一切衆生悉有仏性

2018-12-15 (土)(平成 30 年戊戌)<旧暦 11 月 9 日>(先勝 辛巳 九紫火星)上弦 Gottfrid 第50週 第 25511 日

 

この頃、仏性といふことを思ふ。生きとし生けるものはすべて生まれながらにして仏となりうる素質を持つといふ。憎い人間、悪人、嫌な奴といへども、今、確かにこの瞬間にはその様な様相を呈してゐるけれども、本来はお釈迦様にもなりうる素質を内に秘めてゐるのだ、と心に思ってみる。では、どうすれば彼はお釈迦様と同じになることができるのかと問ふてみる。「本人が余程精進しなければなれまい」と一応は思ふ。だが、彼がお釈迦様と同じになることができるかどうかは、彼自身の努力如何といふよりはむしろ、対話の相手であるこちらの技量にかかってゐることもあるのではないか。表面的に相手を立てたり、おべっかを使ふのではなくて、もし相手の本性がお釈迦様なら自分はここでどうすべきかと考へる。そこに相手に対する本当の敬意が生まれるのではないか。どんな場合でもその様に思ふのはなかなか大変なのだが、苦手な人と話をする時にはチラッとその様なことをまづ思ってみたい。僕はこれまで、諸行無常と因果応報のことわりを二つの柱にして生きて来たつもりだが、今年はそこへ三つ目の柱、悉有仏性が加はることになった。僕はお坊さんの様に厳しい修行は何もできない。夜は寝てばかりゐる。そんな人間が利いた風なことは何も言へないのだが、在家のままで緩やかに自分のできることを少しづつ考へたいと思ってゐる。

 

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Stockholm にある Karlbergs Slott を対岸からのぞむ