井上嘉浩の獄中手記

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文藝春秋2月号に、オウム死刑囚「井上嘉浩」の獄中手記 といふ記事があってそれを読んだ。著者は門田隆将。オウム真理教と言へば悪の限りを尽くし、罪なき多くの人々を殺害し、社会を騒然とさせ、もうその名を聞くだけで、その一連の悪事に参加したものどもはどんな極刑を受けたとしても問答無用、憐れとは思はないつもりでゐた。しかし、この手記を読んで、少なくとも「井上嘉浩」ひとりに対してだけは、免罪すべきではないかといふ気が起きて来た。あまりにも出来の悪い指導者に巡り会ったことが井上の不運であったし、その指導者が出来の悪いことに長く気づかなかったのも不思議なことではあるが、そもそも宗教とは疑ふことを禁じられた営みであれば無理もないかもしれない。僕ら普通の人間は疑ふことと信じることとの間、あるひは合理性と非合理性の間で揺らぎながらそのバランス点を見つけるが、彼らは揺れることを自らに禁じてゐる人種なのだ。オウム真理教は今でも形を変えて活動してゐるらしく、僕もそれを深く憂慮する一員であるけれども、こと井上に関してだけは、手記に書かれてゐる懺悔は本物のやうであるし、もし釈放されればその先は、パウロの回心にも似て、真に社会のために動く可能性の大きい人間であると僕には思はれる。そんな人間を果たして死刑にしても良いものかと思ふ。