すべての人にラブソング

金 旧暦 11月30日 仏滅 丁丑 五黄土星 Jan Jannike V2 23348日目

日本経済新聞夕刊に人間発見というコラムがある。今週は平尾昌晃であった。今日は全6回の最終回。この数日は夕刊がアップロードされる時刻が待ち遠しいくらい、この記事がすごく面白かった。ああいう記事を読むと遠い有名人でも身近に感じるものである。若い頃失敗があったり大病をされたりして、普通の人ならしぼんで行ってしまうところであるが、それらを跳ね返して不死鳥のようによみがえって、大きな仕事をしてきた人である。歌手から作曲家への転向をすらりと受け入れるのも自由で心が広いと思った。え、あの曲も平尾昌晃作曲であったのか、この曲もそうであったのかという歌がたくさんあった。歌手の名前は人の記憶に残りやすいが、作詞・作曲家までは記憶に残りにくいものである。それはある意味で仕方の無いことで、ずっと後になって、ああ、あれはあの人の作品であったのかと思わせるようになった時、初めて報われるようなところがある。作詞家の川内康範などは何年か前、森進一に「おふくろさん」を歌わせないなどの措置をとったが、あの事件は作詞・作曲家の歌手に対する相対的不遇を象徴的に物語るようでもある。平尾昌晃になるとずっと心が広くて気持ちが良い。画家にしろ、作家にしろ、音楽家にしろ、偉大な芸術家がその存命中には案外社会に認められなくて、後世になって次第にその価値が人々に評価される場合がある。僕は平尾昌晃という作曲家はそういう傾向の人ではないかと密かに思っている。何故かというと、僕は音痴なのであるが、あの人の歌はカラオケで始めて歌う時でもある程度歌えそうな気がするからだ。それはまるで新しい英単語を覚える時のように努力して覚えた歌ではなく、向こうからひとりでに耳に入ってくる音楽であったからだ。これが、SMAPだとか、Mr. Childrenだとかよく知らないけどあの時代以降の歌になると自分で歌えるような歌は1曲も無い。それを言うと、「おじさん、それは単に年代が違うんだよ」と一蹴されそうであるが、僕はそうとは限らないと思う。音楽の配信の形はテレビからインターネットへ移行したかも分からない。レコード会社の専属から個人的な配信に移ったかも分からない。けれども、若い人の歌には主張は感じられても、どこか普遍性のようなものは感じられないのである。平尾昌晃のコラムのタイトルは「すべての人にラブソング」。それを語るに相応しい人と思ったことである。