敦賀原発の現地調査

日 旧暦 10月19日 仏滅 丁酉 九紫火星 Beata Beatrice 1 i advent V48 23308日目

昨日と今日と二日にわたって、原子力規制委員会敦賀発電所2号機建屋直下の地層を調べたと新聞で読んだ。どういう結論が出るのか気になるところである。一流の経済学者でも来年の為替相場を正確に予想できないように、また、一流の地震学者でも地震の起きる場所と日時を正確に予想できないように、地層を調べて活断層かどうかを正確に判定することは、当代一流の学者でも誤ることがあるのではないかと、僕は危惧している。判断を誤った場合のリスクには2種類ある。本当は危険であるのに安全であるという結論を出す過誤と、本当は安全であるのに危険であるという結論を出す過誤である。原子力規制委員会はどんな組織からも独立であることが求められているので、危険であるのに安全であると宣言する過誤を犯した場合、そして将来、何か問題が起こった場合、原子力規制委員会は手ひどく批判されるであろうし、裁判に訴えられることも起こるかもしれない。これに反して、安全であるのに危険であるという判定をくだした過誤の場合には、原子力規制委員会が裁かれるということはないであろう。そういうふたつの場合を比較すれば、原子力規制委員会が身の安全の為にどちらにその判定のウエイトを置くかは自ずと明らかなように僕には思われる。もしもこれがこれから新設される発電所の場所の適否を判定するのであれば、安全であるのに危険であるという判定をくだした過誤を犯しても、実害は少ない。発電所は既に運転を続けてきたのである。一般大衆は簡単に廃炉にせよと言うが、ひとつの発電所の建設と運転と管理の為に一体どれだけ多くの人たちの努力があり、費用がかかっているかを想像したことがあるだろうか。何でも簡単にリセットできる便利な計算機社会に住む人たちは、まるで、台所の電灯のスイッチをひとつ消す時のような気軽さで廃炉にせよと言っているのではないかと、僕にはそのように思われる。このように原子力に厳しい状況は昨年の福島から出発したが、福島の事故は大津波がきっかけではあったが結局は人災であったと僕は今も思っている。それは、発電所の硬直した体制とか考え方、経営のあり方に誤りがあったことが津波をきっかけに現れてしまったのだと僕は思っている。発電所側に、事故の原因についてそういうメンタルな面での真の反省があるかどうかということが、建屋の下の地層が活断層であるかどうかという議論よりも安全の為に重要なのであると僕は思っている。