安全神話はどこまでワルモノか

金 旧暦 2月29日 赤口 癸亥 三碧木星 Elias Elis V16 24174日目

僕らの生活の身の廻りの安全を議論するのに二つの方向がある。一つは「コトが起こってしまった時、あなたならどうする?」といふ方向であり、もうひとつは「コトが起こらない様にするために、あなたならどうする?」といふ方向である。僕は後者の議論の方が前者より10倍ほど大事だと思ふ。コトといふのは、たとへば大病であり、たとへば飛行機事故である。僕は時々飛行機に乗るが、「もし墜落したら」と思ふこともないではない。非常に小さな確率にせよ、それは起こりうるわけで、もしさうなってしまへば、自分が文明を享受してきたために、これは自らが払ふべき犠牲であると自分に言ひきかせるよりほかはない。「落ちるかもしれない」と本気で心配し始めたら飛行機には乗れない。それでも飛行機に乗ると言ふことは、僕は一応それが安全であると思ってゐるわけである。もし、これが飛行機事故でなく、原子力事故であったらどうだらうか。飛行機の場合は「落ちるかもしれない」と心配ならば「乗らないでおく」といふ選択肢がある。しかし、原子力事故の場合には選択肢が無い。全ての住民を巻き込んでしまふところに原子力事故の恐ろしさがある。福島の事故から学んだことは全電源喪失の恐ろしさであった。NHKスペシャルでは「全電源喪失に陥ってもなお原子炉を冷却できたはずだ」といふ方向であの事故を検証してゐる。それは理論上可能な議論であり、無論その検証は今後の安全の見直しのために大いに意義があると思ふが、実際の感覚では、予備変圧器を始め、最後の頼みの綱である2台もしくは3台のディーゼル発電機までがすべて使用不能となり、発電所が全電源喪失に陥った時、「勝負あった」と見なさざるを得ない。将来に向けては「さうなった後の安全を考へよ」と言ふ姿勢よりも、「さうならないための安全を考へよ」と言ふ姿勢の方がもっと重要である。全電源喪失の事態に対する運転指針が無かったと言って批判されることがあるが、それはある意味でやむを得なかったことと僕は思ふ。今、日本で稼働してゐる原子炉は例外なく、全電源喪失が起きれば極めて重大な危険に陥る。福島以前の日本の原子力発電所の40年の歴史の中で「ああ、あの時、ディーゼル発電機があったからこそ、危機を乗り越えられた」と述懐出来るほどの重大事故は皆無であった。であるから、「ディーゼル発電機が自動起動した」などと言ふ事象が起これば、それだけでもう運転員にとっては全身から血が引く様な緊張事態であったはづだ。しかし、「そこに電気がある限り」、運転手順書通りにことを進めれば原子炉の冷却は可能である。福島の場合はその状況からさらにディーゼル発電機が使用不能に陥ったのである。勝負はそこでついた。これからの原子力の安全を考へる時、何としても「全電源喪失を決して起こさない」ことが最重要課題と思ふ。具体的には予備電源や直流電源の強化を図る、また、例へば電気室がびしょ濡れになった時、どの様に予備電源をつなぎこむかのイメージ・トレーニングも大事と思ふ。そんな態度を人は「安全神話から抜け出てない」と言ふかもしれないが、単純に事故は起こらないだらうと言ふ楽観とは違ふと思ふ。