甥のT君への手紙 - (2月2日)

この前は忙しい中、立川の母を見舞ってくれてありがとう。おじさんはおばさんと一緒に今朝成田空港に着きました。その足で立川に来て、今日は駅近くのホテルに泊まっています。母のところには今日2回行きました。14:30に行った時に、整形外科を担当するI先生と、総合的な主治医であるH先生の説明を聞きました。母は全体に体がむくんでいて、骨盤骨折の様子は激しく、骨盤のずれるのをさけるのか、おなかのところに固定金具があてがわれています。特に左足は大きくパンパンに腫れ上がっています。コンパートメント症候群を示していて、減張切開、植皮を施すことが必要と言うので、その手術承諾書にサインしてきました。手術はこの他にも、元気になった時に足首がぴんと上向きになれるようにするための足関節固定術があり、さらに、人工呼吸器も2週間以上に及ぶことになれば気管切開がいるということです。これらの三つの手術が必要であると説明を受けたので、それらをまとめた手術承諾書にサインしました。それからさらに骨かどこかでじわじわと血液がもれるらしく、時々輸血をしなければ血圧を維持できない状態が続いているということです。また、その後で聞いた総合的な主治医であるH先生の話では、状態は多発外傷を示していて、ともかく怪我の部位が非常に多いということです。実際、目の周りも腕も体中が傷だらけです。外傷性のくも膜下出血、硬膜下血腫もあるということで、でもこちらの方はもはや処置もせずということでした。栄養の取り方も弱ってきているのか、それが全身浮腫につながっていると言う説明を受けました。さらに、今回の怪我が原因ではないとおもわれるが、と前置きして、十二指腸憩室による黄疸が出ていると言うことも聞きました。これらの話を聞いた後で、面会に行きました。君が行ってくれた時は呼べば手を握り返してくる反応があったそうですが、僕が行った時は、反応はありませんでした。それでも、僕たちが行ったことは分かってくれたのではないかと思っています。

一度、ホテルに戻って、夕方18:30から1時間、おばさんとふたりでもう一度面会に行きました。二度目に行った時はお昼に行った時よりも呼吸があらくなっていました。胸の比較的浅いところでやや苦しそうに呼吸をするのです。僕は「お母さん、お母さん」と何度も叫びました。反応はありませんが、目に涙を浮かべているのではないかと、僕には思われました。僕の推測では、母は心のどこかで僕が会いに来るまでは頑張ろうとしていたのではないかと思います。おばさんも同じことを言いました。僕は、意識を取り戻して欲しい、そして僕の呼びかけに答えて欲しい、と一方で思いながら、もう一方では、こんなに激しい痛みの中で意識を取り戻したら、痛さに耐えられないであろうから、このまま安らかなままであってほしいと、相矛盾する気持ちでした。

瀕死の中で健気に1週間耐えてきた母は、僕に会ってホッとして、後はもう覚悟が決まったのではないか、と言う風にも思えるのです。こんな時、どんな風に祈ったら良いのか僕には分かりません。「命を助けてください」という祈り方が果たして正しいのかどうか、自信がないのです。僕はただ、天に御心と言うものがあるならば、どうぞその御心のままにお願いします、と祈りました。

こうして、2度目の面会を終えた後では、数時間前にサインした手術承諾書ではあるけれども、手術でこれ以上母を苦しめてはいけないのではないかとも思うようになりました。これが今日の僕のレポートです。

この手紙を書いた後で、なぜ、僕はあの時、母に面会もしない先に、説明を聞いただけで、サインを求められるままに急いでサインしてしまったのか。意識が無いように見えたとしても、そこは肉親だけに通じ合える会話があったのではないか。サインをするのは病状を見舞ってから判断させて欲しいと何故申し出なかったのか、その自分の迂闊さを悔やんだ。