前夜式(2月8日) 告別式(2月9日) 弔辞

日 旧暦 1月 28日 仏滅 戊戌 八白土星 Pia Fastlagssöndagen V8 21929日目

皆さん、本日はお忙しい中、母のお別れに駆けつけてくださって、本当にありがとうございました。

母は86歳でした。既に高齢でありましたから、さらぬ別れの、いずれ遠からず訪れるであろうことは日ごろより覚悟しておりました。けれども、人生の最期に、あのように大きな怪我をして苦しむことになろうとは、予想だにしませんでした。つつがなき余生を平安に静かに楽しんで欲しいという願いが満たされなかったことだけが、私にはつらい思い出として残りました。

母の身の上に事が起こった時、スウェーデンにいた私はすぐに動くことが出来ませんでした。状況がなかなか把握できないこともあり、家内と二人で日本に参るのに結局1週間を要しました。毎日、居ても立ってもいられない気持ちでした。この間、姉とその夫は毎日、全てを忘れて奔走して家と病院を往復し、姉の子供たちも一致協力してその母を助けました。事故の二日後には、富山で医師をしている、母にとっては孫の、Tがかけつけて病状を見舞ってくれました。その時は、呼びかけにうなずきがあり、手を握るように話をすると握りかえしたということです。その状況をTからのメールで知って、私は生存の可能性に一縷の望みを託したのですが、病院の医療チームのサポートの献身的な努力にもかかわらず、状況はその後次第に悪化し、私が母に面会した時には意識はありませんでした。しかし、私の呼びかけに対して、目に涙を浮かべているのではないかと思われました。母は私が会いに来るまでは何としても頑張ろうとしていたに違いありません。瀕死の中で健気に1週間耐えてきた母は、私に会ってホッとして、後はもう覚悟が決まったのではないか、という風にも思えるのです。病室に仮の寝台を借りて、母の枕元で、私の小さかった頃からの思い出話を語って聞かせる一夜がありました。次第に遠いところへ行ってしまう母に対して、たとい、声は届かなかったかもしれないにせよ、このような時間が与えられたことは、私には本当に何よりありがたいことでした。そうして母はその翌日に逝きました。

母は弱い人間でした。その遺伝子を引き継いだ私もまた弱い人間です。けれども、母が人生の最期に見せたあの頑張りだけは実に感動的でした。母が潜在的に持っていた強さをはじめて知りました。人生の折々に困難に立ち向かった時、ややもすれば私はすぐに諦めてしまうのですが、そうであってはいけないと、無言のうちに、身をもって、母に教えられた気がいたします。

母は心配性の人間でもありました。日常の取るに足りないほどの小さなことのひとつひとつを、まるで大問題ででもあるかのようにいつも心配していました。けれども、その心配の拠って来たるところをつきつめれば、それは常に生命の賛美に帰し、人の愛の大切さに帰することであったと思います。「もののあはれ」という言葉をことさらに強調するようなことはありませんでしたが、その人生観の底流にあるものは、日本人が千数百年にわたって守ってきた「あはれ」を重んじる心であったと言っても過言ではありません。

お母さん、ありがとう。私はお母さんを通じて、天地の間に生を受けたことを本当に幸せに思っています。私は、お母さんの、春のあけぼののようなほのぼのとした愛を、いつも身いっぱいに受けて育ちました。人間は本当に愛されてしまえば悪いことができません。今の世に悪い人間が後を立たないのは、彼らは本当の意味で愛されないままに育ってしまったからではないだろうかとも思います。お母さんのおかげで私は護られました。ありがとう。どうぞ今は安らかに眠って、遠い空から私たちを見守っていてください。

皆さん、本当に今日はどうもありがとうございました。