司式を勤めてくださったH牧師夫妻への手紙(2月11日)

月 旧暦 1月 29日 大安 己亥 九紫火星 Torsten Torun V9 21930日目

先日は、母の告別に際し、大変なお骨折りを戴き、お世話になり、本当にありがとうございました。いずれ姉夫婦よりお礼申し上げることになると思いますが、とりあえず書面にて御礼申し上げます。

母の死は突然のものでした。母との別離を私は悲しいものとは思っておりません。あるいは、本当は悲しいことであるけれども、悲しんではいけないことのように思っております。けれども、何故母はあのような事故に巻き込まれてしまったのでしょうか。その偶然の意味するところには深い洞察の目を向けなければならぬと思っております。どんな出会いにも意味があり、どんな偶然にも意味があるならば、今度の事件には一体どのような意味が秘められているのであろうか、ということが私の重大な関心事であります。

母は、私の幸せの実現のために犠牲になったに違いない、という思いがあります。知らず知らずのうちに私は貪欲になって来ていたのではないか、そしてそれがもはや何らかの犠牲を伴わなければすまない程に増長していたのではないか、そのような天の御心を母が察して、私に直接下されるべき罰を身代わりに引き受けてしまったのではないか、という思いがあるのです。何と言う親不孝でしょうか。

どんな人のどんな幸せにも、犠牲はつきものであると思います。自分が幸せである時、自分の気のつかないところで、誰かが何らかの苦しみを背負っているのではないかと、ちらりとでも思いやることが、とりもなおさず、人間の優しさというものではないかとも思います。

私はキリスト者ではありませんが、イエスキリストが十字架にかかられたということと、私の母が事故にあってしまったということとは、どこか二重写しのように感じられます。イエスは人間の罪を背負って十字架にかかられた、と言う言葉を聞いても、なかなか「おおそうか」とは分からないものですが、このように自分の直接的な体験に照らし合わせる時、その言葉の意味が分かるような気がします。

今回の事件を法律的に解釈して、「本人の不注意に拠る偶然の事故である。かわいそうだが仕方がない」と受け止めてしまっては、事の本質を見誤ると思います。そこに秘められている偶然の意味を正しく理解し、自分の心の一方で罪を責めて懺悔し、また一方で慈悲に満ちた天からの救いを受けるというバランスを心のうちに自覚しなければ、これから先の人生を誤るような気がしているのです。

実は遺族代表の挨拶で、このことが一番申し上げたかったことであるのです。けれども多くの弔問客を前にして申し上げるにはあまりにも内面的なことでありましたので、こうして別に書いてみました。そしてそれを司式をしてくださった先生への手紙とさせていただきます。