悲しみの表わし方

水 旧暦12月23日 仏滅 己巳 三碧木星 Gunilla, Gunhild 下弦14:03JST V05 21540日目 4.7℃

高校1年生の時、ある同級生のお父さんが亡くなった。肉親の死の悲しみを想像できなかった僕は、忌引きが明けて彼が学校に戻ってきた時、どんな風に声をかけようかと迷っていた。やがて彼が学校に戻ってきた。驚いた。彼はまるで悲しい様子など見せず、実ににこやかに振舞ったからである。この時僕は、悲しみを外に表わさないでいることがどんなに周囲の人へのサービスになるかということを身にしみて知った。偉い奴だと思った。

一体、悲しみの深さとか、愛情の深さは、どんな風に決まるのであろうか。悲しいことがあっても悲しんではいけない、と努力する人がいる。その結果、見かけ上ちっとも悲しんでいないようにみえてしまうことがある。一方、当事者でない場合、自分の気持ちが本当はどこまで悲しいのであるかどうか分からないけど、表向き悲しんでいるように見せかける場合もある。それでもそれは、そのような場所で浮かれた表情をしては真に悲しみの中にある人に対して心無いと思えばこそ、そうするのであるから、これもやはり人の優しさのうちであると思う。本当はうんと悲しいのにそれを表に出さない振舞いと、初めから何も悲しくない振舞いとは同じように見えてもやはり違う。

僕らは色々な悩みを抱えて生きているが、人生の行き着くところで手にする真理は、もしかすると、実はとても簡単で、子供にも分かるような単純なことなのかもしれない。結論がそうであるなら、それでは何も書を読まなくても良いではないか、学ばなくても良いではないかと考えがちである。しかし、それはそうではなくて、やはり、深く学んだ後に得る単純なことは、深く悲しんだ後に得られる平安のように、僕らには分からない意義深い何かがあるのではないかと思う。