師走の憂い

土 旧暦 11月3日 先勝 庚戌 五黄土星 Gottfrid V50 23321日目

14日は日本では討ち入りの日であるが、わが町に住む友人の誕生日でもある。昔は随分このご夫婦に世話になったくせにこの頃は疎遠になりがちで、同居人とちょっと顔だけ出してこようと話して、その前日の夕方に尋ねた。いきなり尋ねると失礼かなとも思うが、今から行くよと連絡してはかえって何か準備をされることにもなりかねないので、数分の玄関での立ち話くらいならさほど邪魔にもなるまいと思って尋ねたのである。行けばSälenに一人で住む彼のお母上が、今朝からvakandeの状態になったと言う話を聞いた。一日に何回かの訪問介護では不十分で、常に枕元に付き添いが要る状態のことを云うらしい。それで、お誕生日をお祝いするような雰囲気ではなくなって、神妙にお話を伺って家に帰った。そして翌日、お誕生日当日の早朝にお母上は昇天されたという知らせが間もなく届いた。そんなこともあって、昨日は何となくブログを書く気力も失せて、早くからベッドにもぐりこんでしまった。日本では自分の親の今はの際を見守ることは孝のひとつの形として考えられている。愛の形の最もの基本が「そばにいる」ということであってみればこれは人の道として極めて自然なことのように僕らには思われるが、こちらでは必ずしもそういう価値観ではない。どちらが正しいのか僕には分からない。人によっては家族に見守って欲しいと思う人もいるだろうし、人によっては見苦しいところを見られたくない、ひとりで静かに旅立ちたい、と思う人もいるかもしれない。昔は大家族時代であったから、家族に看取られる場合が多かったが、今では世代ごとに別々のところに住む家族も多くなってきている。最期を家族とどう迎えるかは日本でも考え方が変わって行くだろうと思う。それにしても友達をたくさん持つことは良いことであろうけれども、そして楽しい時を分かち合うのはそれは楽しいだろうけれども、その分だけ悲しみの機会も増えるわけで、このごろ流行のソーシャルネットワークとかで作る人の輪の広がりがどれだけ個人の内面の充足を満たすものか、それに近づく距離を僕は測りかねている。