是非もない

2024-04-13 (土)(令和6年甲辰)<旧暦 3 月 5 日>(先勝 丁未 五黄土星) Artur Douglas    第 15 週 第 27454 日

 

「是非もない」と言へば、「さうなってしまったのなら仕方がないさ」といふ響きがある。織田信長が本能寺で明智光秀の謀反を知った時、信長は「是非におよばす」との言葉を発したといふ。この言葉の元々の意味は「良いも悪いもない」といふ意味であると思ふ。今週の日本経済新聞木曜日夕刊の森岡正博氏の「誕生肯定の難しさ」といふ読み物も面白かった。文中にある「もし、私が生まれてきたことに良いも悪いもないとすれば」といふ仮定が深遠なのである。実は、世の中のあらゆる事象について、「良いも悪いもないのだよ」といふ視座を据えてみることは意外と大事なのではあるまいか。ダーウィンが進化論を唱へた時、当初、簡単には世に受け入れられなかった。適者生存の原則には冷たい掟を感じる一面もある。だが、何のために進化するのかといふ意図などは実は何もないのだよと思ってみることで、救はれた様な気持ちになることはないだらうか。プーチンみたいな指導者が世の中に出現することについても、気候変動で人類の前途に注意信号が点ってゐることについても、一旦は「良いも悪いもないのだよ」といふ認識を持ってみることは意外と大事なのではあるまいか。そんな視座から出発して、私はやはりかう思ふといふ筋道を考へれば、それはひとつの考へとして深まっていく気がする。今回、日本に来てホテルやお店で若い人の接客態度に違和感を感じたことがあった。一瞬ムッとなったけれども、それで怒るのではなく、「良いも悪いもないのだよ」と思ってみるだけで、怒りは和らぐ気がする。「物事にほんの少しでも欠陥があれば、それだけですべてがダメになる」といふ発想から自由になるためにも、一旦は「良いも悪いもないのだよ」と受け入れてみることは大事かなと思ふのだ。

昨日行った公園で