オッペンハイマー

2024-03-13 (水)(令和6年甲辰)<旧暦 2 月 4 日>(大安 丙子 一白水星) Greger    第 11 週 第 27427 日

 

今年のアカデミー賞では宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」(長編アニメーション賞)と「ゴジラ-1.0」(視覚効果賞)の日本作品が受賞した。また、作品賞などを「オッペンハイマー」が受賞した。「オッペンハイマー」は2月ごろであったか、僕の住む町の映画館でも上映されたのだが、それは1日限りの上映であった。たまたまその日は他に予定があったので見に行くことができなかった。だが、偶然にも藤永茂著・ちくま学芸文庫の「ロバート・オッペンハイマー ー愚者としての科学者」といふ本をkindle版で読んだ。読後感は複雑で、何とも自分の頭がひとつの結論の様なものに収斂しない。オッペンハイマーの言葉は、それが語られた時の文脈こそが大事であるのに、言葉だけが切り離されてひとり歩きをし、それが世の中に広められて、誤解がますます広がると言ふ印象を受けた。例へば「技術的に甘美」とか「今、われは死となれり。世界の破壊者とはなれり」といふヒンズー教聖典からの引用がひとり歩きをするのである。オッペンハイマーは科学者の責任と罪を転嫁しようとしたのではない。悪魔に魂を売ったのでもない。苦悩の人であったが、原爆製造のプロジェクトを率いたことへの過去の過ちを悶々と悔いるといふ風ではない。今この状況から、いかにして人類は調和できるかといふ希望に向けて全身全霊を傾けて苦悩した人であった。核兵器戦略爆撃に使用されることを阻止するために奔走したと言っても良い。今、「核兵器のない世界」を求める世論や運動がどんなに広まったとしても、もしこの物理学者が歩んだ苦悩と云ふものに無頓着なまま進められたのであれば、それは薄っぺらな運動であるといふしかない。オッペンハイマーは正直な人、純粋な人、良心の人、学問の人であった。その人にして、この悪魔の兵器を開発せねばならなかった矛盾をどう繋ぎ合はせて良いものやら。核兵器は絶対悪であるけれども物理学そのものが悪であるはずがない。核時代の危機を招来した責任をひとり物理学者におはせて、自分たちは無罪だと思ひこむところに、私たち人間の大きな過ちといふか、原罪がある様に思ふ。

春を待つ桜の木に巣箱が設けられて