事故が起きた時

2023-06-28 (水)(令和5年癸卯)<旧暦 5 月 11 日>(先負 丁巳 三碧木星) Leo   第 26 週 第 27168 日

 

昨日のブログで遊園地での事故について書いたが、起きた事故をどの様に受け止めるかについては、その国によって、その人によって、どう違ふだらうかといふことを思ふ。極端にいふと、「あれは誰かが悪いのではない、偶然にその様な事態が発生してしまったのだ、事故とはさういふものだ」といふ考へ方と、「あの事故は防ぐことができたはずだ、防ぐことができなかったのは管理体制が悪いからだ」といふ考へ方だ。この二つの両極端の考へ方の中間に人々は落ち着くのだと思ふ。「それが運命だったのだから諦めるしかない」と思ふ傾向はヨーロッパの方が日本より強い気がする。それに対して日本ではどこまでも「人の管理が悪かったのだから責任を取ってもらひたい」といふ方向に走りやすい。数年前、栃木県那須町で高校生らと先生が登山講習会で雪崩にあって死亡した事件があった。学校行事で起きた事故であることもあって、裁判で争ふこととなり、県と県高体連は賠償を命じられたといふニュースを見た。春秋に富む身をもって講習会に参加し、いきなり雪崩に飲まれてしまった。これまで一生懸命に生きてきた証をどこにも訴へられないまま、ただ諦めよと言はれても、遺族の方の無念は察するにあまりある。県や学校は若い生徒の命を守ることへの配慮が足りなかったといふ判決は、もっともなことと思はれる部分もある。けれどもその一方で、この様な判決が多くなると、学校側は再発防止のために、心をこめた対応を考へるよりも、ともかくも裁判に巻き込まれないために無難で事務的なことばかりを考へる傾向に走るのではないかと危惧される。対話は遠のくばかりではないか。世の中がギスギスして心の通はない社会になってしまはないかと心配だ。誰かがどこかで何かをジッと忍耐しなければならない。誰かに向かって忍耐してくださいとは誰にも言へない。見知らぬ人の見知らぬ忍耐にそっと心を寄せる。それがひとのやさしさといふものではないだらうか。新田次郎の小説に「聖職の碑」があるが、それをふと思ひ出てしまった。自分に襲ひかかってしまった運命にどの様に向き合へば良いのかは一人一人の思ふところであり、それには模範解答などない。難しい問題であると思ふ。

家の前のイチョウの葉が夏の色を見せてゐる