海渡る「出稼ぎ日本人」

2023-03-04 (土)(令和5年癸卯)<旧暦 2 月 13 日>(友引 辛酉 四緑木星) Adrian Adriana 第 9 週 第 27052 日

 

「海渡る「出稼ぎ日本人」 さよなら、安いニッポン」といふ日本経済新聞の記事を読んだ(ドキュメント日本 2023年3月4日電子版)。僕自身38歳で、妻ひとり、娘ひとりを連れてスウェーデンに渡って来たので、その記事にはそれなりに興味があったけれども、読後感はまことに複雑なものがある。思ふことのひとつは、人はそんなにも高い報酬を得たいものだらうかといふことである。一攫千金を夢見て外国に渡っても、運命がどの様に自分に作用するかはやってみるまでわからない。僕の場合は海外への転職に際して、高い報酬を得たいとはほとんど思はなかった。当時、精神的にとても辛い、ギリギリのところまで追い詰められてゐて、岐路に立たされた時、条件を比較して進路を選ぶ余地はなく、目には見えない何かに導かれる様に巡ってきた選択肢に、もうこれしかないといふ覚悟で海を渡ったのである。あとから思ふと、周囲に僕を追い詰めた人など誰も居なくて、ただあまりに働きすぎた末に判断力を無くして、自分で自分を追い詰めただけだったかと分かるのだが、しかし、結果論で云へば、それほどまでに働かなければその様な覚悟は生まれなかった。親子3人が健康で文化的な最低限度の生活さへできるなら、それ以上のものは何も望まないといふ覚悟で海を渡ったのである。そして実際それからの5年ほどは、金銭的にはまことに質素な生活であった。が、それは決して惨めな感じではなかった。引っ越して数年のうちにスウェーデンクローネがひどく安くなって、15年以上も社会で働いた僕の年収は、日本円にすると、日本の会社の新入社員にも負けてしまふほどであった。それでも後悔はしなかった。むしろ安い労働力で競争力がつくことを喜んだほどである。昨日の自分と今日の自分とに労働力の価値としてどれほどの違ひがあるだらう。それなのに日本円にした年収の比較で見れば大きく下がってしまふ。この時僕は、年収などただの数字ぢゃないかと思った。そんなものに捉はれない確固たる価値の基準を自己の内面に築かなければならないと思った。今、日本人の収入が低いと言って問題視する意見があるが、長期的にはチャンスであるといふ見方もあると思ふ。いづれにしても海外への転職に際しては、この様な浮き沈みに耐へうるだけの心の準備も必要なのではあるまいか。自分の存在が次第に会社で認められる様になってからは、暮らし振りは楽になったが、むしろそれからの方が、ムクムクと湧き上がる欲望と向き合はなければならなくなった。給与といふ形で自分に入ってきたお金であっても、それは天から与へられたマナであることを思ふ様にした。人生といふもの、何が幸せであるかは分からない。もうひとつ思ふことは、もしその様なリスクを取ることも辞さないのであれば、やはり日本から外に出ることは貴重な体験だと思ふ。僕自身、外国で暮らしてみて初めて分かる日本といふものを感じたし、それは何にも代へ難い体験であった気がする。「何のために」といふ理由づけを考へてから行動してはいけないと思ふ。行動した後で初めてそれが何のためであったか、分かってくる場合がある様に思はれてならない。人は何のために学ぶのか。その回答はおそらく学んだ人だけが知ってゐるのだ。

割と風があって、散歩の途中で拾ひ集めたゴミがまた飛んでしまひさう