無限大の恐ろしさ

2020-06-24 (水)(令和2年庚子)<旧暦 5 月 4 日> (友引 戊戌 八白土星) Johannes döparens dag 第 26 週 第 26066 日

 

松原隆彦著「宇宙は無限か有限か」を Kindle 版で読んだ。宇宙の果てはどの様になってゐるのか、誰もが疑問に思ふことだが、その疑問を出発点に、数学や物理学のお話を分かりやすく解説されてゐると思った。読み進むうちはとても分かりやすいのだが、読後に何も見ずにそれを人に説明しようとするとやはりできないので、内容をよく理解してないのだと思ふ。それでも書く。宇宙はなぜ生まれたのか、時間、空間、物質とは何なのか、「無」とは何なのか、さらには自分の存在は一体何なのかといふ様なことまで考えさせられた。「情報だけでできた宇宙」といふ見方も新鮮に感じた。自分自身も、この世の森羅万象も、まがふことなき実在に見えて、実は見せかけだけのものであるかもしれない。するとその様な世界観から、ある種の安らぎへと導かれる感じがする。もっと言ふなら何やらありがたい心地さへして来る。あとがきでは次の様に述べられてゐた。「私たちは無限といふ言葉を安易に使ひますが、無限といふものの本当の意味を考へると、そら恐ろしくなってきたのではないでせうか」その通りだと思った。無限は手の届かない宇宙の彼方にあるばかりでなく、身近なところでも想像できるものだ。例へば数直線を切断したところにも現れる。学生時代に「デデキントの切断」を習った。例へば数字1で数直線を切断し、1 は下側に含まれるとすると、下側は 1 で止まってゐるから最大値があるが、上側を見るとその断面には果てしない無限が広がってゐる。つまり最小値を指定できない。言葉で表すなら、1 よりほんの少しだけ大きい数としか言へない。どのくらいほんの少しなのかと聞かれても、果てがないので答へられない。有理数の分割で実数が定義される。コンピュータで扱はれる数字はプログラム上で整数型とか実数型とか定義されるが、どんなに大きくても有限の桁で表示される以上は、本当の意味で実数ではない。ここにも実数といふ言葉を安易に使ってしまふ誤解が潜む様な気がする。無限に続くものに思ひを馳せることは恐ろしい。どんなに可能性が小さいことであっても、無限回も試みれば実現することになる。地球と同じ星、あなたと瓜二つの宇宙人も無限の宇宙では必ず起きる。「虚仮の一念、岩をも通す」といふ言葉もあるが、無限に繰り返すことができれば、不可能も可能になるに違ひないと思ふ。

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Nyköping の港で。Photo by 同居人。