世界はいくつもあるけれど

2019-09-05 (木)(令和元年己亥)<旧暦 8 月 7 日>(友引 乙巳 七赤金星)Adela Heidi 第 36週 第 25774 日

 

自分とは何だろう?どこから来たのだろう?宇宙はどこまで広がってゐるのだろう?この様な疑問は誰もが多かれ少なかれ抱くものだと思ふ。量子力学の学説の中に、「多世界解釈」と呼ばれるものがある。存在することと観測することとの接点で、一人の人間が何かを見るたびに世界が決まる、といふ考へ方だ。自分に感知できないだけで、世界は実は無数に存在する。無数にある中のひとつだけを各自が選びとってゐる。僕の眼に映る宇宙は他人の目に映る宇宙とは違ふものかもしれない。別のものなのにあまりにも共通部分が多いので、両者は同じ時空を共有してその中に棲む様に見えるだけなのだ。社会を見れば、地震があったり、津波があったり、火山が噴火したり、交通事故があったり、あふり運転をする人が居たり、すぐに怒る人が居たり、虐待があったり、いぢめがあったり、テロがあったりする。過去には戦争があり、広島や長崎に原爆を落とされることもあった。もっと良い世の中にならないものかと思ふが、自分の住む世界がその様であるのは、過去何万年かの人類の遺伝子を引き継ぐ自分の宿命なのだ。トランプ大統領ツイッターを聞くにせよ、貿易戦争が過熱するのを見るにせよ、世の中に起こる様々の事象は自分の毎日の暮らしとは全く無縁である様に見えて、実は自分の宿命の中に必然的に起こることなのだ。もっと良い社会に身を置けば別の世界が開ける。もっと良い社会に身を置くためには、あらゆる事象を責任を持って自分の目で見ることだ。そこに意思決定があり、選べばまた新しい地平が開ける。それを無限に繰り返すので、取り得る世界の組み合はせは無限になる。そのひとつを選べば他は見えない。選びとった世界がどの様に展開するかは、畢竟自分のものの見方にかかってゐる。良い社会が実現するかどうかはそれを観測する個人によって決まるのだ。夜中に目が覚めるとそんなことを思ふ。

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晩夏の Nyköping