貧富の差について思ふこと

2020-03-04 (水)(令和2年庚子)<旧暦 2 月 10 日> (大安 丙午 四緑木星) Adrian Adriana  第 10 週 第 25954 日

 

年来、世の中では貧富の差が拡大する一方の様である。現在裕福な人でも、将来何がきっかけでそれが破綻するかどうか誰にも分からない。でも自分が貧しくなってしまふ場合をあまり心配するのも良くないと思ふ。義のために貧しくなるなら貧困は恥ではない。自分の人生に、意外な形で、自分の意図とは大きく違って、何かが起きることはありうる。それを受け容れる用意は普段から心に準備しておくべきだと思ふ。さて、貧富の差が拡大すると、「お金持ちはもうそれだけでみんな悪い人」と考へる人が増える様な気がする。普通に学校教育を受けてゐるだけでは名門大学に入学できないとか、お金をかけて塾に通ひ、入試向けに特訓しなければ名門大学に入学できないとか、言はれることがある。僕は「それって本当なの?」と疑ってしまふ。現代のデジタル社会は貧富の差を拡大させたかもしれないけれども、まさにそのデジタル社会の故に、どんな貧しい家庭の子供であっても、ネットに繋がりさへすれば、猛烈に勉強できる機会を手にしてゐるのではないかと思ふのだ。大人たちはその様にこそ若者を励ますべきで、今の社会は悪いから貧しい若者は可哀想だ、みたいな否定的な励まし方は避けるべきだと思ふ。昔、秦の始皇帝が崩じた頃に、中国で陳勝呉広の乱があった。「王侯将相寧んぞ種あらんや」の言葉で有名であるが、若い人は今の世の不公平に対してこれくらいの気概を持つべきではないかと思ふ。僕は何も武装蜂起せよと言ってゐるのではない。心にその様な気概を持てば、社会はきっと変はるだろうことを言ひたいのだ。

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春の夕暮れにしては寒かった。