中国の詩文

日 旧暦 9月2日 仏滅 乙巳 七赤金星 Jenny Jennifer V40 23616日目

日本経済新聞日曜版の「詩文往還 作家と中国」というコラムを張競が執筆していて、今週は高橋和己のことが書かれていた。そこには中国では文化の最高位に位置する詩文に恋は殆ど出て来ないと書かれていた。そのことと高橋和己の作品とは共通するものがあって、色恋に主題を置く日本文学の系譜の中で彼の小説は異彩を放つのだというようなことが書かれていた。ちょっと飛躍するが、こういう話を聞くと、本来恋愛は咎められるべきものであるかという人生の大きな問題に僕は行き当たってしまう。現実の世界の男女関係はなんだか痴話のようなものが多いけれども、文学の中の恋は美しい。現実では決して満たされないものを想像の上で満たしてくれるだけでも文学はありがたいし、恋を愛でる心は季節の移り変わりに感じる機微とも通じるものがあって、それは「もののあはれ」にも通じていると思う。卑俗的なものや人間の欲望に触れないように遠ざけるのではなくて、積極的にそれを肯定しつつ、如何にそれを洗練された形にまとめあげるかという点で、映画や文学が実生活での行動を考える時にヒントを与えてくれる例は多いと思う。「本来恋愛は咎められるべきものであるか」という問いかけは初めから無意味でなかろうか。恋に「正しい恋」も「間違った恋」も倫理もあるはずは無い。「不倫の恋」という言い方ははじめから矛盾を内包している。要は好きなものに向かってただ真っ直ぐに向かって行く勇気があるかどうかというだけの話であり、その欲望を如何に美しく肯定できるか、というだけの話である。そんなことを思うと、恋愛を軽んじる中国の詩文は、僕には高尚でありすぎて近づくことができない。