「歌謡曲から「昭和」を読む」を読んで

水 旧暦12月25日 赤口 戊寅 六白金星 Hilda Hildur V03 22989日目

なかにし礼の「歌謡曲から「昭和」を読む」という本を読んだ。数々のヒット曲を生んだ人ならではの示唆に満ちた著作である。が、ヒット曲を書いてきた人になら誰でも書ける著述でも無いと思った。この本には、僕のブログの2009年8月23日に書いた疑問の回答が、あらかた、尽くされているようにも思う。昭和という時代がどういう時代であったか、歌謡曲から俯瞰する試みも斬新的で良いと思った。中でも、「三拍子」のリズムにからむテーマや、「軍歌は名曲であるほど罪深い」という指摘は卓見であると思った。けれども同時に、あの時代にあって死出の旅が避けえぬさだめならば、せめてうたを胸に抱いて散ることが出来た方が救われるという見方もありはしまいかとも思った。危険思想だろうか。歌謡曲の終焉のキーワードはディジタル化である。著者は終章で「全国民が知っている歌などというもののほうがじつはおかしい」とも言っている。分散化の肯定である。本当の民主社会というものはそういうものかもしれない。だが、僕には割り切れない。名曲の生まれない時代に、人々は何をもって同じ時代を共有したと感じあえるのだろうか。音楽ばかりではない。文学においてもディジタル化が進めば、大衆文学は生まれなくなるかもしれない。誰でも手軽に発表できるローカルな場からどうやって普遍的な価値を持つ作品が発掘されるだろうか。文明の時代にあって、玉石混交の情報の洪水の中から真に自分に感動をもたらすものを探し出すことは、情報の無かった平安期に「源氏物語が読みたい」とねだった菅原孝標女の場合よりも難しくなってきている。個の時代にあって自分ひとりだけの感動を大切にする。響きは良いがそれはしかし、感動そのものの質の矮小化にもつながる危険をはらみ、ひいては文明の退廃につながる危険をはらんでいる。