言葉の壁

土 旧暦 9月13日 先負 辛酉 九紫火星 Sabina V43 23272日目

スウェーデンに暮らして何年になりますか、と聞かれると、いつも返事に戸惑ってしまう。「25年です」と答えればよいのであるが、そう答えてしまうと、「そんなに長く暮らしているにしては、随分あなたは言葉が下手ですね」と言われてしまうことを恐れるから戸惑うのである。外国へ来ているのに、およそ、僕ほど図太く、破廉恥にも横着に、この国の言葉を学ぼうとしない人間もいないのではないかと思う。恥ずかしいことであるが、頭の中はいつも日本語だけで思考している。だが、結果として、それだけ言葉ができないにもかかわらず、この間ずっと、勤めた会社から解雇されることなく給料をもらい続けることができた、という事実だけは残る。それはいったい何を意味するだろうか。言葉ができなくても何かしら特殊な技能を持っていればそれは可能であるかもしれない。だが、残念ながら僕の場合、それも当てはまらない。結局、行き着くところは、過去4半世紀にわたって継続した日本経済の強さこそが背景にあるのだと思い当たる。時代を振り返ると、湾岸戦争あり、アジア通貨危機あり、今はユーロが不安定な時代を迎えている。日本に居た時には聞いたこともなかった「バブル」と言う言葉が生まれ、その後「失われた十年」という言葉も耳にした。銀行の不良債権問題もあった。そういう波乱はあったにせよ、少し距離を置いて大局的に見ると、世界の中で、この間ずっと日本経済は意外に堅実な強さを持っていたのではないかと僕には思われる。東日本大震災以降においてさえ、円安に動くことはなかった。経済が強いと言うことは、その言語が強いということである。外国へ行ってその地に埋もれるように生きるためにはやはりその土地の言葉ができないといけないと思うが、たとえ現地語の能力が低くても強い経済の国の言葉ができればやっていける場合があることを僕は奇跡的に体験した。中国から来てしばらく一緒に働いた友人がある。ある時彼は僕に向かって、「君は良いね」としみじみと語った。僕の才能をうらやんだのでは無論ない。僕の背後にある日本経済の強さに結びついた幸運をうらやんだのである。もしも、耳に聞こえてくる言葉を理解できなかったために生命の危険にさらされるような状況に至れば、いかに横着な僕でも言語の感覚はいやがうえにも研ぎ澄まされるようになるのだと思う。多国語を自由にあやつる天才が、強大な帝国よりもむしろ歴史的に弱小な国から多く輩出するのもそのことと関係があるような気がする。ともあれ、やはり、現地語ができないのは恥ずかしい。僕は孔子の言葉を思い浮かべては、「剛毅朴訥、仁に近し」などとつぶやき、ペラペラと弁舌さわやかなるを賤しむ気風を思っては、格好は悪いが自分を慰めることにしている。