あの頃

日 旧暦 9月14日 仏滅 壬戌 八白土星 Simon Simone Sommartid slutar V43 23273日目

スウェーデンに渡って以来、如何に日本経済が強くあったとしても、僕は日本の会社を辞めて海を渡ったのである。もしも給料の呉れ手が日本にあって、それで外国に住むのなら、その強い経済の恩恵を存分に受けることもできたであろうが、僕の場合は知らない国へ来て本当にゼロからの出発であった。一般に転職と言えば、能力の高いエリートがより高い条件を求めて仕事先を移動するようなイメージを連想しやすいが、僕の場合は全く状況が違っていた。剃髪し、仏門に入ることこそ無かったけれども、心のありようとしてはまさに出家そのものであった。ひたすら静かな暮らしを求め、あらゆる欲望を胸に仕舞い、大政奉還して江戸を去ってからの将軍慶喜の生き方をお手本として暮らした。日本を離れる時、母は泣いた。親戚からは、安定した暮らしを捨ててまで何しにそんなところへ行くのだと諭された。けれどもあの時の僕には他に選択の余地が無かったのである。幸いにそれまでにちょっとだけ一緒に仕事をしたことのあるスウェーデンの会社がこちらで仕事をしてみないかと誘ってくれたので、それにかけることにした。当時の条件は今から思うと随分低かったが、生活の糧をいただけるだけで僕には十分であった。生活ができるぎりぎりの最低限度の収入で生きてみることも僕には重要な体験であった。日本に居た時に自分の暮らしが贅沢であるという意識は全く無かったが、それと同じようなレベルで何日か暮らし始めると、たちまち収支のバランスが崩れた。それで初めてそれまでの自分の日本での生活が如何に贅沢なものであったかということに気づいた。今の自分は低収入に落ちたけれども、世界の水準から見ればこれでもまだまだ恵まれた方だと自分に言い聞かせた。外食することはなく、家での食事も質素になった。その他、生活の仕方を色々と工夫した。これには随分同居人の才覚に負うところが大きい。今でも長期出張で日本に行って宿で食事をすると、毎晩これでもかというほどたくさんのご馳走が出てくる。それを見るたびに、ありがたいような、しかし、日本は本当にこのような贅沢を続けて将来は大丈夫だろうかというような妙な気持ちになる。1年か2年で、君はもう要らないよ、と言われるのではないかとおびえていたが、結果的には会社は何年も続けて僕を雇ってくれた。給料も少しずつ増やしてくれた。ところが、そのうちにクローネの価値が下がった。勤め始めた時には1クローネ24円ほどであったのが、11円以下になった。自分の仕事の価値が下がった訳でもないのに、数年のうちに日本円に換算すると年収が半減したのである。多分、その頃の日本の大学新卒の年収にも負けたのではないかと思う。だがスウェーデンに暮らしている限りは年収が下がったと言う自覚は無い。このことがきっかけになって、僕はお金の価値と言うものが、如何に相対的なものでしかないかということを知った。それはまた、新しいものの見方を僕に与えてくれた。安い労働力でサービスを提供できるということはすなわち強い競争力を意味する。そうやって毎年過ごしているうちに、やがて娘も家から巣立って行き、いつか暮らしにゆとりが生まれて来た。すると知らないうちにまた贅沢を覚え、静かであったはずの暮らしはいつからか忙しくなっていた。こうして振り返ってみると、いつか僕はあの出家の日に戻らなければならないのではないかと思うことがある。