多読ということ

水 旧暦 6月14日 先勝 甲午 六白金星 Per V31 231563日目

世の中にはひと月に何百冊とか、僕らには信じられない速さで本を読む人が居る。今のような情報化社会にはできるだけたくさんの知識を有しているものが勝ち、ということもあるのだろうが、僕のような遅読のものには到底真似ができない。いや、遅読はおろか、恥ずかしい限りであるが僕の場合は、状況によっては本どころか、新聞にさえも目を通さない季節もある。しかし、開き直って言えば、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」という言葉だってある。そのレベルでは本を読んでいる暇もないはずだ。読みたくてたまらない本であるならばいくらでも読めば良いが、何か義務感にかきたてられて本を読むのであればそれはつまらない。漱石は英国に2年間滞在した。彼は最初名高いケンブリッジに行こうかと考えた。しかし伝手を頼って様子を探ってみると、そこは自分とはおよそ無縁な上流社会であることが分かった。政府より受けている僅かな学費をもってしては到底そこに学ぶことは出来ないことを悟り、ロンドンに居を構えた。そうして外出を控え、あるだけの学費でできるだけたくさんの本を買った。そしてそれを下宿で読む生活が続いた。猛勉強であったに違いない。しかし、1年を経過した後に読了した書籍数を点検してみるとわずかなものであると彼は感じた。こういう方法をもってしては「白頭に至るも全般に通ずるの期はあるべからず」と思うに至る。そうしてまさにそういう状況から「文学論」が生まれてくるのである。多読はどこまで必要か。それへの答えは人それぞれとしか言いようが無い。けれども漱石のかの結論も、多読の果てに得られたものであることを忘れてはなるまい。