「ブリューゲルへの旅」を読んで

土 旧暦 5月4日 友引 乙卯 一白水星 Adolf Alice Midsommardagen V25 23146日目

ドイツ文学者中野孝次といえば、「清貧の思想」とか「ハラスのいた日々」で有名であると、ウィキペディアに出ている。若い世代の人々にとってはそうかもしれぬが、冒頭の1行で表現するにしても、ちょっと違うんじゃないか、あるいはもっと大きく足りないものがあるんじゃないかと僕は思う。氏は年齢的には僕の父の世代の人であり、2004年7月に79歳で亡くなっている。人の精神の高みを平明につづられて、僕は今もこの人のファンである。いや、ファンであると言いたいのだが、この人のこの本を読まずして、ファンです、などとは決して言えない本を僕はずっと読まぬまま今日まで来てしまったので、恥ずかしい気持ちもあり、そのようなセリフを口にしたことは一度もない。その本とは無論、「ブリューゲルへの旅」である。何日か前銀座で教文館に入った時、文春文庫で出ているのが目に入って、迷わずに買った。あの本屋は僕の読みたい傾向の本を注文しなくても置いてくれる良い本屋である。奥付を見ると、2004年5月10日第1刷となっている。氏のなくなるわずか2か月前である。文春文庫版「あとがき」があって、「これはわたしの記念碑であり、それが人生の終りにのぞんで文庫として生きかえるのは、わたしにとって蘇生を意味する」と書かれている。そういう本を僕は買った。偶然にしてはなんだか出来過ぎていて、氏から個人授業を受ける時のような強いメッセージを感じた。この本は「闇」という章から始まっている。僕たちの子供の頃はまだ夜中に暗い便所へ行くのが怖かった。怖さのあまり廊下を走った思い出もある。近代化される前の日本の農村の様子とその中に「生きる」ということの意味は、かろうじて僕らの世代には共通体験として想像できる範囲のうちにあるかもしれないが、あまりにも大きく世の中の様子が変わった現代の人たちには伝わらないのではないかという気がする。けれども人は、無知であり、愚昧であり、未熟であっても、あるいはむしろそういう状況であることのゆえに、ひとつの生は絶対性を持ちうるというようなことを、著者はその自身の日本での原体験とヨーロッパでのブリューゲルの絵の解釈とを行きつ戻りつして、語られるのである。本当の闇とは太初の闇であり、宇宙の闇である。近代文明の明るさの中に生まれ落ちたものも、その生を明きらむる過程においては、いつか必ず行きあたる問題で、僕たちの世代のような暗い便所の体験を持たない分だけ、想像力を強くせねば本質に近づくことができないかもしれない。しかし、そうであるからこそ、いつか必ず訪れるこの状況へのヒントを、この本を通じて、若い人に知ってほしいというようなことを思った。